この原稿は、ミスター・バイク誌2001年11月号に掲載されたものである。
原稿を持ち込んだとき、中尾祥司編集長は即断した。
「うん、おもしろいじゃん、この原稿。やりましょう!」
だが、条件があった。
「でも、取れても・・・・そうだな、5ページが限度なので、
それで入るように縮めてくれませんか」
それで、バッサリ、バッサリとやって、超縮めたのが掲載されたもの。
例えば10枚の原稿を3枚にまとめる。
それでも言いたいことは変わってはいない・・・・。
話の本筋に関係ない部分をそぎ落とす。
これがプロの原稿書きの、掲載時に必要な手腕となる。
量ではなく、質。
だから、アレはアレでいい。
だが、映画でもなんでも、「完全版」とか「ディレクターズ・カット」
とかいうものがあるだろう。ここに掲載するのは、それだ。

誌面さえあれば、ほんとうに書きたかったこと・・・・
以下、完全オリジナル版の元原稿を、一挙掲載。




オレはこうして勝った!


「よう、どうも静岡県の山中に、SDの会場に使えそうなキャンプ場があるらしいぜ。
このあいだ〇〇と飲んだときによう、ちょろっと聞いた話なんだけどよう。
ダメ元で、行ってみなよ」

 とある雑誌編集者からこの情報を聞き入れたオレは、
さっそくトランポに50m級の巻き尺やらビデオやらの
計測セットを積み込み、中川マユミとともに出掛けて行った。
 ・・・・のであるが、着いたと同時に思いきり意気消沈してしまった。
「まさか、ここの事じゃあ、ないよねぇ・・・・」
「いや、ここだよ。他に該当するような土地はないもん・・・・」
 面積、路面、民家からの距離等どれひとつ取っても、
一見しただけで絶望的なところだった。
「うっへえ、参ったなこりゃ」
 川崎から5時間近くもかかる場所だったので、
こりゃあとんでもない無駄足になってしまったと頭を抱えたが、
会場探しなんてこれの繰り返しなのだ。
 例えば。
「私は某スキー場の関係者なのですけど・・・・」
 と電話が掛かってくる。絶好な場所ですと。
「あの、うちのHPはご覧になりましたか? あの中に『SD誘致について』
という項目があるのですけど、あれを読まれた上でのお話なのでしょうか」

「はいはい、もちろんです。書かれている条件はすべて満たしています!」
 ああそうですか、そいつはいいやと視察の旅へと出かけて行く。
 そして着いたとたん、喚く。
「おい、あそこにあるのはなんだ。ありゃあ民家じゃねぇか!」
 民家どころではない、別荘やロッジがあちこちに点在している。

 あるいは、飛行機に乗って行かなければならないほどの、地方へと見に行く。
 そこでもほとんどの場合、同じことが待ち受けている。
 満面に笑みをたたえ、待ち受ける関係者に泣く泣く言う。
「あのう・・・・あそこに見えるアレ、何でしょうかね・・・・」
「はあ、ホテルですが、何か・・・・」
 やんわりと言う。
「あのですね、それじゃあ、あっちに見える建物、
あれは、ここからどのくらいの距離があると思います?」
「そうですね、500〜600メートルぐらいですかね」
「では、あっちの鉄塔は?」
「う〜ん、1キロといったところでしょうか」
「いえいえ、それぞれ直線距離でせいぜい300メートルと、
およそ600メートルといったところでしょう」

 SDは真夜中のライブパーティーがメインとなっている。
従って、騒音の苦情が絶対に出ないこと、というのが第一となる。
屋外で開催される音楽ライブが、アンコールタイムを含めても、
みな午後9時終了となっているのはこのためだ。
 都市条例で決められているのだ。
 それを免れるためには、徹底した対策を取っておかねばならない。

「はあ・・・・ご足労おかけして、どうもすみません」
 これの繰り返しなのだ。
 だが、文句を言うことはできない。
 みな「善意」「好意」で自分なりに見つけて来てくれるのだから・・・・。
 ありがたい事だと思わねばならない。
 ゆえに、情報があれば、取り敢えずは見に出かけて行く。


「くっそう。何か、他の企画物で使えないかなあ」
「せっかくここまで来たんだからねえ。どうせだから、
いろいろ見て行こうよ、この辺りをさ」
 それで、畑と民家の点在する狭い道をノロノロ、トロトロと
うろついていたときのことだった。

 右手にあった、とある大きな農家の庭先から、
女の人の運転するワンボックスが、
歩くようなスピードでスルスルと出て来るのが垣根越しに見えた。
 距離はまだ20mほどはあったし、
こっちのスピードもまったく出ていなかったので、
特に気に留めていなかったのだが、
それでも運転者の頭がずっと右側の方を向いたまま、であったのが引っ掛かり、
オレはアクセルから足を放していた。
 その農家から路地へと出る道筋は「ト」の字型となっていて、
そのまま右方向へ出ようとしているような感じだった。
(ごく限られた近所の家しか使わない道であろうから、
どうせクルマなど来ないだろうと、確認もしないのだろうな・・・・)
 と思いながら、オレはクラクションを鳴らした。
 まさか、とは思ったが、このままお互いに進んで行けば両車の間隔はどんどん狭まり、
やがては三角形の頂点でハチ合わせするからだ。

 我が目を疑うような事が起こったのは、その直後のことだった。
 オレがクラクションを鳴らすのとほぼ同時に・・・・その女の人は、
一時停止をしないどころか、突如として大きく左へ、
つまりこちらにハンドルを切って、左折行為を開始したのである!
 いや、左折というよりも、角度を考えると、これはUターンに近いものだった。
(うわあ、なんてことしやがるんだ!)とオレは仰天した。
 選択は、3つあった。
 ハンドルを切って左へと逃げる。
 加速して躱(かわ)す。
 ブレーキを踏んで止まる。
 の、3つだ。
 だが道幅はほとんど1車線+α程度しかないし、ハイエースなので腰高だ。
ガクッと切ったところで車体がロールするだけで、進路などすぐに変わるわけがない。
 では、加速するか?
 乗っているのは全長5mを超えるスーパーロングである。
 加速性能と長さを考えたら、それはあまりにもヤバイ賭けとなる。
 そしてオレは、賭けには絶対に乗らない人間なのだ。

 残された選択はブレーキを踏むこと。
 オレは、それを実行した。

 仰天すべき事態ではあったが、取り敢えずそれで難は免れられるハズであった。
 なにしろ、相手との距離・・・・というか間隔は、決して十分とは言えなかったが、
それでもブレーキを踏めば止まれるほどにはあったのだから。

 ・・・・ところが、実際には、オレたちは衝突した。

 その主婦はオレの方に顔を向け、口をアングリと開け喉ちんこを見せ、
『依然としてブレーキも踏まない、ハンドルも戻さない』まま更にズルズルと出て来て
・・・・こちらのドテッ腹にドッスン! とバンパーをメリ込ませてから、
やっと止まったのだった。
 いや、もっと正しく言うならば、メリ込ませたまま、
その後もさらにこちらのクルマを、アイドリング状態で押し続けていた。
「なんだよ、このばばあ! なんで、ブレーキを踏まないんだよう!」
「ばばあなんつって、歳あんまり変わらなかったりして、はは!」
 バコッ! と音はすごかったが、大した衝突ではなかったのでマユミも軽口をきいた。
「まあな」
 それにしても、こんなバカな事故があるものかと、
オレは梅干しのように顔をくちゃくちゃにながらクルマを降りた。

 喉ちんこの主は(言われてみれば)40代後半の、エプロン姿の主婦であった。
「おばさ〜ん・・・・なんでこっち見ないで出て来るんだよお。
オレ、クラクション鳴らしたじゃないかぁ」
「あっ、はい。すいません」
「それにさあ、もう押すのやめてよ」

 いい? そのまま、そのままね。
 落ち着いてね。
 まずサイドブレーキを引いて。そう。
 じゃあ、今度はブレーキをね、ブレーキを踏んで、ギアーをパーキングに入れて・・・。
 それから主婦をクルマから降ろした。
 ホッと一息着いてから言った。

「なんで止まらなかったの。まだ十分に、隙間はあったろうにさあ・・・・!」
 返って来た返事が奮っていた。
「すいません・・・・あのう、頭では止まらなきゃと分かっていたんですが、
あのう、びっくりして足が動かなかったんです」
 オレはまた梅干しになって頭を抱えた。
「足が動かなかったってさあ。あのねえ、これこっちがクルマだったから
鉄板が凹っこんだだけで済んでいるけど、もしオートバイだったら、
これ大変なことになってたんですよ? あなたのクルマに当てられて、
そっちのコンクリートの側溝に突っ込んで・・・・」


 突き出たコンクリートの塊を凝視しながら、オレは数年前に亡くなった、
とあるバイク乗りの女の子のことを思い出していた。
 仕事関係で付き合いのあった子で、何度も飲みに行ったことのある子だった。
 その子はあるとき道路の左側を走っていて、ガードレールのほうへ倒れ込み、
そして・・・・運悪く立っていた電柱に頭を打ち付けて、死んでしまった。
 状況からすると、並走していたクルマに右側から当てられたらしいのだが、
真相は不明だ。
 気の毒なことこの上ない話だが、
そこにはほんの僅かな力で横から突っつかれただけでも、
オートバイの進路は大きく狂わされるという現実が顔を覗かせている。
 不意に、強制的に進路を変更させられ、もしその先に障害物があったら?
 どんなにスピードが出ていなくとも、
それは恐ろしいまでの衝撃力となって乗り手を襲うのだ・・・・。


 主婦は平身低頭謝り続ける。
「ちょっと、このままにしておいて下さいね」
 オレはマユミからカメラを借りると、フィルムを丸まる1本使い切るつもりで、
あらゆる角度からその場の状況を記録した。
 これはもう、過去のいろいろな体験・経験から来る、
言わば条件反射的に身についてしまっている行為なのであるが、
案の定、これは後に多いに役立つこととなる・・・・。

 ああ、厄介なことになっちまった、これで当分帰れなくなると思いながらも、
オレたちは招かれるままに、主婦といっしょに家の中に入って行った。
 広い庭に平屋造りの大きな家屋。納屋に土間。
典型的な日本の農家のような作りをしていた。
「どうしたの?」
 父親らしい、じいさまが出て来た。
「いや、〇〇(娘)を迎えに行こうと思ってそこ出たらね、
この人のクルマにぶつけっちゃって・・・・」
「あらあ! それでお宅さん、怪我は?」
「いや別に、ありませんよ、なに、ちょこっとぶつかって、少し凹んだだけですから」
 主婦は最初から全面的に非を認めてくれていたので、
オレはそれ以上なにも言わなかった。
 よく、ちょこっとぶつけられただけで鬼の首でも取ったかのように
威張り散らす奴がいるが、そんな連中をオレは心底軽蔑している。
(そんなに大事なものならば、一般公道乗り回すんじゃねぇよ!)と。
 この場合、相手は確かに非常識なことをやらかしたかもしれないが、
結果的言えば誰が傷付いたわけでもなくただ鉄板が凹んだというだけの話、
トンカチでひっぱたいて、色を塗り直せば元通りになるのだ。

 オレが言いたかったのは、元通りにならない事故、
つまりは先の『オートバイだったら・・・・』という部分だけだったのだ。

 ぶつけられました。相手は非を認め謝りました。それで全面的に弁償しますと。
 それならもう、男なら、ガタガタぬかすな。

「あのう、保険で修理しても構わないでしょうか? ウチは○協のに入ってるんですけど・・・」
「ああ、ぜんぜん構わないですよ。どこの使おうと、直してくれるなら」
 事故を起こしたのは初めてだというその主婦は、あたふたしながらも○協に連絡を取り、
あれこれ掛け合っていた。
 ばあさんも出てきて、お茶とダンゴを出してくれた。
「あのう、○協の人が警察には届けなくてもいいから、と言っているのですけど・・・・」<
 電話口を押さえて主婦が言った。
 担当者がそう言っているのなら、こっちは別に構わないですよとオレは答えた。
 こんな事故のために事故検分、現場検証をしてさらに時間を食われるのなんざ、
こっちだって御免だ。
 担当者が来るというので、土間から繋がっている居間に置かれた大きなコタツに入って
みんなで待った。
「あのう・・・・こんな山奥まで、なにしに来たのですか?」
 人の良さそうなじいさまが、茶を啜りながら聞いて来た。
「あっ、実はですね、そこにキャンプ場があるのですが、そこをちょっと見に
来たのですけど・・・・管理人さんてどの辺りにお住まいなんですかね」
 何げなく聞いたら、主婦が素っ頓狂な声を出した。
「あらやだ。うちなんですよ、管理人は!」
「あらやだ!」
 マネして答えたら、全員がドッと笑った。それで一気に場が和んだ。

 ああだこうだと小1時間ほど世間話をしていると、件の○協の職員がふたりやって来た。
 歳の頃は20代半ばと、30代半ばといったところか。
 オレは表へ出て、庭先の事故現場で、事の顛末を話した。
「はあはあ、なるほど。ではこちらで、いちおう保険で処理するということにしますが・・・・」
 というようなことを職員は言った。
 だが・・・・その言葉尻には、なにやら妙に引っ掛かるところがあった。
 後は全部こちらでやりますから、というニュアンスであったのだが、
なにか明言を避けるような言い回しだったのだ。

 後日必要書類を送るので、今日はもう帰ってもけっこうですよ。
 あとはこちらですべてやりますから・・・・。
 ?・・・・?

「分かりました。それでは、申し訳ありませんが、
その旨記載したものを一筆書いて戴けないでしょうか」
 オレは当然要求すべきものを要求した。これは現場で示談を結ぶための、
絶対条件とも言えるべきものであった。
 すると、それはできないと言うではないか。
 いや、正確に言うならば、できない、とは言わなかった。
言葉巧みにその話から話題を遠ざけたり、別な話に持って行こうとするのである。

 そこから始まった。

「あの、ちょっと待って下さい。
警察には届けなくてもいいとおっしゃったのは、そちらのほうですよ?
ここで、『全面的に修理代を持つ』ということを証書にでもしてもらわない限り、
何かあったら困るのは私のほうです。ですから、それは絶対に必要なものなのです」

 すると相手はなにやら難しい規約上の話を持ちだし、それはできないと言う。
言い回しは相変わらず遠回りなものの、今度は明言した。
 オレは続けた。
「後になって、言ったの言わないというのが始まる・・・・というのが事故処理後の、
実に良くあるパターンでしょう。それを防ぐために、警察に届ける。そうでしょう?
ところがそれをしていないまま、この場を立ち去ってしまうと。
それ、私に非常に不利じゃないですか」
 相手は、うちは天下の○協なんだから、そのへんはきちっとしていますよ、
というようなことを言っていたが、オレは頑として譲らなかった。
 気が付くと若いほうの男が電話を掛け、
上司らしき人間と話し込んだあと、主婦と代わっていた。
(はい・・・・はい・・・・ええ、わたしも最初は動転していたので、
そう言ってしまったんですが・・・・えっ? そうなんですか?
・・・・はい、なにも分からなかったもので・・・・)

 最初は動転していたもので?
 そう言ってしまった?
 なにも分からなかった?

(あっ、このやろう、なにか入れ知恵してやがるな)と思ったオレは、
だんだんと気分が悪くなってきていた。
「すみません、あの、電話を代わってくれと言っているんですけど・・・・」
 主婦がすまなさそうな顔をしながら、子機を持って来た。
携帯など絶望的に入らない山奥だっのである。
 みんなの前ではちょっと何なので、オレは土間に降りてから電話に出た。
 相手は自分は査定部の責任者の、どうのこうのの立場の者ですが、と名乗った。
「あのですね・・・・」とオレはまた事情を説明した。

 私・です・ます・と丁寧な口調で。

 相手はそれを「うん、うん」と聞く。それもオレには気に入らなかった。

(なんで、事故られた相手が丁寧語で相手側が「うん、うん」なんだ?)
それはねぇだろうと。
 おもしろくなかったが、それでも相手からの質問に対しては、
感情を現さないようにして答えていた。
 それから30代半ば男のほうにまた代わった。
 責任者だという男のほうは、どうも、
オレがどんな人間なのか直接話してみたかったようだった。
 電話が終わると、30代半ば男は少し間を置いてから、こう言った。

「あのですね、修理の件なのですが、こちらのクルマもですね、壊れていますので、
その分の過失相殺が・・・・」

「ちょっと待て」

 オレはいよいよ本格的にムカッ腹を立て始めた。
「ぶつかる直前まで、ただの一度も、こちらを見なかった、しかも、
気が付いてからも、ブレーキを踏まなかったと本人が、認めている。
だから、こちらが全面的に悪いので弁償しますと言っていた。
なのに、なにがいまさら『こっちも壊れているから』だ!」

「いや、そのう、あくまでも道路上の事故というのはですね、
双方が走行中の・・・・」

「いやも、へったくれもあるか! オレは止まっていたんだぞ、そのときには。
完全にだ。そこへブレーキを踏もうと思えば踏めた、
なのにそれができないで突っ込んで来た、こんな状況で、
オレになんの過失があるってんだおい!」
「・・・・・・・・」

 とりあえず沈黙はしたものの、相手も頑張る。
「いや、しかし、止まっていたといってもですね・・・・」
 そもそもこっちの言うことなど信用していないのだ。
 ぶつかったのは路上である、それに『保険加入者』から話を聞いた上では、
お互いに衝突したようにしか思えない、したがってこれはいわゆる交通事故であり・・・・。
 そんなことを言い始めていた。
「よし分かった。ちょっとこっち来てくれ」
 オレはふたりを表へと連れ出すと、
メジャーを取り出して相手のバンパーに付いている傷と、
オレのクルマのドテッ腹に付いている
傷の長さを見ている前で計った。
 両方ともピッタリ同じ幅である。
「よく見ろ!」
「はあ、しかし・・・・」
「なにがしかし、なんだ! 出合い頭の事故であるならば、
オレのクルマだって当然動いているわけだから、
横方向の長い傷痕が残っているハズだよな? どこにそんな傷がある!」
「・・・・・・・・」
「同じように、もし瞬間的な出来事であるならば、こっちだって
反射的にブレーキを踏んでいる、すれば必ずノーズダイブしているから、
〇〇さんのクルマのバンパーの高さとその傷痕というのは、
当然ズレが生じているハズだよな?」
 オレは主婦を立ち会わせ、2台を事故時と同じ位置に置き、
バンパーの傷痕とドテッ腹の傷痕の照合をしてみせた。
 結果はほとんど数Cmの狂いもなく一致した。
「これが何を意味するか分かるか?
オレは完全に停止していたということだよ。
それも、一度沈んだサスが元通り延び切るまでの時間があるくらいの余裕を持って、な。
そして逆に、あんた方が弁護したいほうのクルマはまったく沈み込んでいなかった、
つまりはノーブレーキだったということの、明白な証拠なんだよ!」
「・・・・・・・・」
「だからこの人は自分が一方的にぶつけてしまったと、
こちらが全面的に悪いのですからと認めて、修理代はすべてお支払いしますと、
すぐに言ったんだよ。それのどこに文句があるんだ!」
「・・・・・・・・」
 もう一度上司と話をさせてくれと言うので、また家の中に戻り、
またみなで雁首を揃えた。


 だんだんオレは顔が平たくなってきていた。
 30代半ば男がオレの相手をし、
20代半ば男は土間の片隅のほうへ行きまた電話を掛け始めた。
「ちきしょう。オレだんだん頭来だしたぞ」
 マユミも知らんぷりしてたばこを吹かしている。
「だいたいなあ、あんたたち名刺も出さねぇってのは、どういう了見だ?」
 慌てて取り出した名刺をオレは受け取った。
 そう、この連中はまっ先にこちらの連絡先を聞いておきながら、
名刺すら渡さなかったのだ。
それも腹を立てる伏線となっていた。
 名刺を見て驚いた。顔にも態度にも出さなかったが。
『〇〇〇支店 融資係』
『〇〇〇支店 金融係長』
 なるほど。本来はそういう業務の人たちなのか。
 電話を掛けていた男は、なにやら先ほどの上司から言われているようだった。
 狼狽している様子が、ありありだったからである。
 予想は的中した。
「あの、すみません、あの、もう一度お電話を代わって戴けないでしょうか・・・・」
 代わった。
 その内容は、要約すると次のようなものである。
「いろいろとご迷惑をおかけしているようですが、事故というものはですね、
決して片方だけに責任があるというものではなく」

 ここで、追突された場合の話を持ち出して来た。

「完全に停車中の状態でですね、後ろからぶつけられたとしてもですね、
申し訳ないですが、それでも幾分かの過失は発生してしまうものなのです」、と・・・・。

「それにもう、発生からだいぶ時間が経ってしまっておりますし、
なにぶん山中ゆえ、今からまた現場検証ということになりますと、
かなり面倒なことになってしまいますし・・・・そこでですね・・・・」

 お互いのクルマは、お互いの負担で修理するということでご納得いただけないでしょうか。
ご納得できないのはこちらも分かりますが、なにぶんにもこれは、
公道上の事故なのでありまして・・・・。
 まったく聞き馴れない、難しい用語を多用しながら、その男は言った。
 すでにオレは土間から表へと出かけていた、子機を握り締めながら。
 完全に表へと出て、玄関の引き戸を締めてから、オレはとうとう、喚いた。

「なんだと、このやろう!」
「小難しい法律用語を並べれば、相手は黙るとでも思ってるのか。
なに? 過失割合だ? いまさら現場検証だ? いいだろう、やろうじゃねぇか。
オレは直後の現場写真、事細かくフィルム2本分押さえてあらぁ。
傷痕の計測もすべて写真に残してあるわ。こっちが黙ってりゃあいい気になりやがって。
それなら出るとこ出て、徹底的にやろうじゃないか。
その代わりあんた、自分の首掛ける覚悟で向かって来いよ!」

 主婦はどうしていいか分からずに、ただオロオロし、
申し訳ありません、申し訳ありませんと謝り続けるばかりだ。
「いいんだよ〇〇さん、あなとはこれ、もう関係ない話となってしまっているんだから。
あなたとの話は終わった、それで今はオレと保険屋との話になっているんだから」

 まあ、そうは言っても、当の本人はこの主婦なのだから、ほんとうはそうではなかったが、
あまりにもオロオロペコペコするので、気の毒だから言ったのであるが。
 こうなったら、もう早く切り上げて、などということは考えないことにした。
 腹を括ったオレは、電話を借りると自分で110番して警察を呼んだ。
 しばらくして駐在所の年配の警官がカブに乗ってやって来た。
 オレは、事故が起こったときの状況のみを説明した後は、
聞かれたことにのみ、答えるようにしていた。
 何を言おうとそれは自己弁護にしかならないし、相手は事故処理のプロであるからだ。
 だから、マユミにも、その旨を伝えておいた。
「なあ、おまえも何も言うなよ」
「分かってるよ。同乗者がなに言ったって手前味噌にしかならないよ、こういうときは」
「手前味噌! 歳バレるよな、その言い回しは!」
「・・・・・・」
 警官の指示によって、事故当時の位置にクルマが配置され、現場検証が始まった。
 結局はやはり、警官の疑問は次の2つの点に集中した。


『こんな鋭角なところを左に曲がるのに、あなたはなぜそっちのほうを見なかったのか』

『被害者のクルマが止まった位置は分かりました。
そしてあなたが気が付いたという位置も、分かりました。
しかしこんなに余裕があったはずなのに、なぜ止まれなかったのですか』


 後者の理由は、先に書いた通りのものである。
びっくりして足が動かなかったと。
それで警官も納得はした、いちおうは、であるが。
 しかし、前者の理由となると、さっぱり理解できない。
 なんせ、ぶつけた当の本人すら、「なぜ左を見なかったのか自分でも分からない」
と言っているのだから・・・・。

 最後に警官は言った。

「それにしてもねえ。こんな大きなクルマが、なんであなた見えなかったの?
それが不っ思議で不思議で仕方がないんだなあ、私としては・・・・!」

 警官の下したジャッジは、100対0であった。

 100対、ゼロ! 保険屋の言い分ではないが、ふつうこれは考えられない判定である。
どんな事故の場合でも、少なくとも1割程度の過失は持たされるのが当たり前なのだ。
 それがないとは、どういうことか?
『警告し、停止しているにも拘わらず、敷地の中から半ば意図的と言えるほどの状況で、
一方的に衝突させた』
 いかにバカげた事故だったかが、これでやっと判明したというわけだ。

 するとそこへ、30代半ば男のほうが来て言った。
「あの〜佐藤さん。あの〜、いま上司と話したところですね、
ここはあの、こちらへ来ている私の一存で処理をということなので、
こちらで修理のほうは全額負担させて戴くということで・・・・」

「当たり前の話だ」

 オレは憮然として答えた。
「そんなことよりも、オレはあんた方に言いたいことがある」
 オレは腹の中の思いをぶつけた。


「いいか、よく聞けよ。保険てのはな、こういうときのためにみんな、入っているんだよ。
こういうときのために、な。
なのに、あんた方の態度と来たらなんだ。
最初から、相手の過失を探すことばかりに終始しているじゃないか。
そのためにことさら難しい専門用語を使ってみたり、
過去の判例だなんだのが載っているという専門書をそのカバンの中から取り出してみたり。
 この人は、毎月毎月、きちんと保険料を収めているんだぞ。
決して安くはない額の保険料を、滞ることなく毎月。
で、図らずとも事故を起こしてしまいましたと。
それも、どう考えてもこれは自分の不注意から起こったことであり、
こちらが弁償するのが筋だろうと思った。
 そして、こんなときのために私は保険に入っているのだからと、連絡した」

 ふたりは一転して、神妙な顔付きでこっちの話を聞いてた。

「ところが、それを聞き付けて現場に駆けつけたあんた方は、
ああだこうだと理屈を並べて、こちらのアラを探すことばかりに終始している。
〇〇さんのクルマの修理代はもちろんこちらでお支払いしますが、
相手の方のは無理ですねと話を持って行く。
庭先から50Cmであろうが出たところで起こったもの、それすなわち公道上の事故 であり、
それすなわち片方だけが悪いということは有り得ないのだ、
ほれ、ここにも過去の判例が出ていますでしょうと、判例集をチラつかせながら」

「あんたたちが外でコソコソやっているときに、〇〇さんは言ったよ。
『申し訳ありません、もし保険のほうが下りないようでしたら、私が自分で修理代を
お支払いしますので・・・・』とな。
オレが一番頭に来ているのはそこなんだよ。
それじゃあいったい、何のための保険なんだ?
自分がヘマをしでかしてしまった、あるいはアクシデントに巻き込まれてしまったと。
その時に、助けてもらう。
そのために、保険というものはあるんじゃないのか!」

 一呼吸おいてから、えっ、どうなんだ! と腹立ち紛れにコタツをぶっ叩いた。

「はあ・・・・まあその通りなんですが・・・・なにぶんにも私たちには権限がなく、
最終的には〇〇にある支店長がその判断を・・・・」

「支店長? その支店長は現場には来ない。来たのは融資係と金融係長という肩書の、
あなた方ふたりだけだ。
まあいい、それは。だが、警察は呼ばないでくれ、これは誰が言った?
あんたたちのほうではないか。
それで届け出もせずに、つまりは現場検証もせずにクルマを片付けてしまった。
その後でやって来て、処理はこちらにお任せ下さいと。
お任せ下さいと!? それでどうなった?」
「いや、よくよく話を聞いてみると、これは公道上の事故なので、
あなたにも悪いところがあるのです、責任があるのです。判例がどうのこうの。
 これでもしオレが『忙しいから、では後はお任せしますぜ○協さん』と帰っていたら、
いったいどうなった? すべては後の祭りとなるんだよ」

「揚げ句に、警察官という審判が来て、結果、これはいくらなんでも、
ちょっとないんじゃないの? となったら、手のひらを返したようにその神妙面だ。
 これ、保険屋のやることか? こういうことは一般人同士の素人処理で、
ぶつけた相手のほうがなんとか賠償を免れようとズルいことを考える輩が取る手口であって、
保険屋のやることじゃあ、ねぇだろうが!」


 オレは言った言った、思いきり言った。
 なぜなら、最初にも書いた通りこれがもし・・・・もしオレが
オートバイに乗っているときのことだったら、いったいどうなっていたのだろうか、
という怒りが頭の中から一時も離れなかったからである。

 間違いなく転倒して、かなりの怪我をしているであろうオレは、
相手のクルマなり救急車なりで病院へ搬送される・・・・
つまり、その現場からは姿を消してしまうことになる。

 そうなったらその結果は?

 いやいや、怪我で済むならまだしも、もし命を落としてしまっていたら?

「オートバイのほうが勝手にぶつかって来た」
 そして絶対に、絶対に相手の保険からは救済の手が差し伸べられることはないだろう。
 少なくともこの場合であるならば、確実に。

 だが・・・・悲しいことにこんな不条理な話、実は世の中ゴロゴロしているのである。
 そう、秦野真弓さんの事故に代表されるように、ね・・・・

『警察の現場検証に基づいた厳密な審査の結果、本件はこちら側が
保険金を支払うべき筋合いのものではないということが判明しました!』



 保険って、ほんとに何のためにあるのだろうか。
 誰の、何の保証のために、あるものなのだろうか。

 つくづく考えさせられた、久しぶりの事故だった。


 さて、いよいよ肝心なことを書いておこう。
 オレがなぜ保険屋とやりあって勝てたのか、それも過失割合100対0という、
完璧な勝ちを収めることができたのか、という最も大切なことを、である。
 これに際しては、オレが書くよりも同じ『保険屋』の側の人間に語ってもらったほうが
より説得力があると思うので、その筋の専門家にお願いした。
 以下は、知る人ぞ知るという、某大手損害保険会社の、重鎮の言葉である。


 私は長い間『損害保険会社の調査現場』にて仕事をし、『実際の保険金支払い』を
担当している者です。
 現在『現場調査員』の指導をしておりますが、
本件や、本誌でも度々取り上げられた柳原美佳さんが取材報告された、
「バイクとワゴン車の轢き逃げ事件」等などを見聞き(これは保険業界では
有名な話となっております)するにつけ、未だにこの様な保険会社側の対応が
あるということは嘆かわしいことであり、保険業界全体の不信感に繋がるような
印象を受けます。
 一般的に民間損害保険会社の場合、調査部門は『車両損害』『人身損害』とに
それぞれ専門者を配置し、事故報告書と実際の損害状況とが辻褄が合っているか等を
調査し、双方に対して納得の得られる答えを求めます。
 本件の場合は、調査担当者のそのような行動は全く見られず、これは我々の
通常業務では常識的にはちょっと考えられない事です。
 ふつう、事故現場で該当事故発生を目撃する事はまずありません。
事故発生後、相当時間を経過してから事故報告を受け、私たちは動き出します。

 そこで、担当者はどのように調査を進めるかを簡単に説明します。 
 まず契約車両と、対物車両(相手のクルマ)の損傷部分を
『その傷の位置・高さ・幅・長さ・引きずり傷の有無』等を精査します。
 もちろん事故現場に立ち会うこともありますが、このような調査で
何が判明するかといいますと、傷の特徴でその対象物(当たった相手の部分)
が判明します。

 例えば粘土を立ち木にぶつけますと、立ち木の表面が粘土に印象されますね?
 これと同じ様に、追突した車の損傷部分が印象(ナンバープートの番号が印象
される事もあります)されたり、同じく傷の特徴で、ぶつかったのが金属部分なのか
プラスチックなのか、あるいはゴム(タイヤ)か等も、特定する事が可能となります。
 さらに高さを調査することで、事故時の双方の車両の位置関係が判明します。
(例えば平坦な場所でノーブレーキの場合には、相手側には低い位置に傷が着きます)
 また、傷に引きずり跡がある場合には、引きずり傷のある方の車両が移動している、
ということ示唆するものとなります。
 傷の新旧で、事故日を推測することも可能となります。

 この他にも、傷の角度から車のロール、即ち旋回中の事故、あるいは段差に起因する
ものであると判明する場合や、タイヤの傷跡で判明する回転方向により、
前進していたのかバックしていたのかということが分かりますし、
スリップ痕からはブレーキング時の速度等が判明します。
 まだまだありますが、割愛します。

 これらの事故解析技法を『現象解析』といいますが、本件の場合はこの様に
『双方の車両が目前にある』にも拘わらず『担当者が何もしていない』
ということを考えると、現場にいらした方はそのような教育(現象解析)
を受けていなかったものと考えられます。
 率直な意見を述べさせて戴くなら、これはお粗末な担当者だと言わざるを得ません。
 一方、佐藤信哉氏は冒頭にもあるように、真っ先にそれを確認し写真にまで記録した。
 それも一見無用とも思える部位まで、あらゆる角度から撮影しています。
 これは後から「実はここも当たっていたので修理した」等の古傷の便乗修理をされ、
余分な支払いを防ぐという意味でも非常に有効なことなのです。
 これは我が社にスカウトしたいぐらいの的確な判断・現場行為と言えます。

 最大の勝因はこの『証拠の保全』であったと言っても過言ではないでしょう。

 我が社においてはこの部門を受け持つ事になる人間に対しては、
他の部門では考えられないほどの6ケ月間という長期に渡る『導入研修』を実施しています。
 しかしそれでも残念ながらすべての損害調査担当者が同じレベルの調査技術を
持ち合わせているというわけではありません。
 研修した技能には個人差がありなおかつ新型車や新素材の採用、
ABS等の装着の有無等でも損傷の態様が変わってきてしまうため
常に新しい情報と知識が必要とされているからです。

「保険って何のためにあるの?」

 私の親しい司法関係者には、
「保険規約でも、道交法でも他の法律でも、詳しい人に味方する」
と言い切る人すらいます。
 このケースのような担当者に当たってしまった場合、
やはり最後は自分で自分を護るしかないというのが現状です。
 そのためには色々な情報に興味を持って取り組み、自分のものにするべきでしょう。
 保険屋のプロの私がこんなことを言ってしまっては、
まさに身も蓋もない話となってしまいますが、これが、現状なのです。



 この原稿が少しでも誰かの役に立つことを心より願って。

   佐藤信哉。