顔の正体

私の友人に,年季の入ったバイク乗りがいます。
その男が,10年ほど前に経験した話です。
彼はその頃,ZZ-R1100に乗っていました。
他にこれといった趣味なんか持っていない男でしたが,
休日になるとそいつにまたがって,
高速道路を200km/hで ぶっとばすのが,唯一の楽しみ
でした。
ところで,バイクに乗りなら誰でも実感できるでしょう
が, 走行中に身体に受ける風圧というのは,
かなりしんどいものがあります。
ましてや200km/hともなれば,
車体の上にぴったり身体を伏せていなければ,
とても耐えられるものではありません。
その男も当然,超高速でぶっとばすときには,
タンクの上にへばりつく
ような姿勢をとっていました。

で,そいつがいつものようにぶっとばしていたときのこ
とです。
いつもなら,メーターが200km/hを指したところで,
さすがに 「これ以上はやめとこう」
という自制心が働いて,アクセルを緩めるんですが,
その日は道がガラガラだったもので,
ついつい調子に乗ってアクセルを開け続けてしまいまし
た。
ところが,メーターが220km/hを超えたとき,
突然スクリーンに 「わっ!」 という感じで,
人の顔が現れたのです。

何しろ,220km/hで走っている最中のことです。
パニックなんてものじゃない。
必死になって転びそうになる車体を立て直して,
ようやく路肩に停車しました。
(何だったんだ,何だったんだ今のは……)
路肩にしゃがみこんで,
10分ぐらい気を静めようとしていたんだけど,
全く動悸がおさまらない。
それほど生々しい表情が,瞼に焼きついていました。
しまいに高速隊のパトカーが側に停車して,
警官が 「どうかしましたか?」 なんて訊ねてきたけど,
「いえ,ちょっと気分が悪くなって」
なんて言ってごまかしました。
その日は,その後何事もなかったそうです。

一週間後の休日,
そいつはまたもや高速をとばしていました。
その日も道はすいていて,
快調に走ることができました。
で,アクセルを開けようと思ったとき,
嫌な予感がしたそうなんですよね。
でも,結局好奇心に勝つことができなかった。
先日のように,メーターが220km/hを超えたとき,
やっぱり現れたんです,あの顔が……。
ある程度予感していたので,
今度は冷静に見ることができたそうです。
その顔は,目をひん剥いて,口を大きく開け,
恐怖に引きつった表情をしておりました。
というよりも,
「恐怖そのものを顔で表現したら,こうなった」
と言ったほうが,ぴったりくるんじゃないか。
(断末魔のときには,
人間ってのは,こんな顔をするんだろうな……)
そいつは,ぼんやりとそんなことを考えたそうです。

ある程度冷静になると,
いろいろ試してみることができる。
スクリーンから頭を上げると,何も見えない。
スクリーンの中に伏せると,
たちまちその顔が現れてくる。
顔は,
あくまでも目の前のスクリーンに映っているようです。
また,メーターが220km/h以下になると消えてしまい,
220km/hを超えると,突然現れてくる。
「面白い」 なんて思う余裕は,ありません。
それよりも,彼は自分のすぐ目の前に存在している,
この不可解で理不尽な「存在」に対して,
次第に激しい敵意を感じるようになりました。
依然として彼の前には,
血走った目を大きく見開いた「表情」がある。
なぜこんなものが見えなければならないのか。
それも普通の顔じゃない。
人間が一生の間に一度,
見せるか見せないかという表情が,
自分を見つめている。
次第に彼は,その顔に対して憎しみを覚えてきました。
すると,
その顔がかすかに笑っているようにも思えてくる……。
彼は,すでに冷静ではありませんでした。

顔の向こうに,
黒い小さな点のようなものが,透けて見えてきました。
いや,正確に言うと,視界には入ったのだけれど,
意識に上るのが遅れました。
何しろ,220km/h以上で走っているときのことです。
あっというまに黒い点は,具体的な物体となって,
彼の意識に飛び込んできました。
彼の前にそこを通ったトラックが,
荷台から落とした大きな箱でした。
220km/hで箱と激突しては,
ひとたまりもありません。
彼は大きく空中に放り出されて……。
その後は,記憶が途切れたそうです。

奇跡的に,彼は一命をとりとめました。
全身数ヶ所の骨折だけで済んだのは,
彼が皮ツナギを着ていたことと,
放り出された後,路面を「転がった」のではなく,
300メートル以上も「滑って」
止まったことが原因だったようです。
そのかわり,彼が着ていた皮ツナギは,
彼の身代わりになって,ボロボロにすりむけていました。

この話は,病院に見舞いに行った際,
私が彼の口から,直接聞いたものです。
別れ際に,
彼が言った言葉が,今でも印象に残っています。

「なあ,○○(私の名前)よ。
今にして思うんだけどな,
あの顔って,どうやら事故った瞬間の俺の顔
だったようなんだよな……」  

          了