カタナの男
――あれは,私が中学一年のときのことだった。
当時私は,テレビでも何度か採り上げられたことのある,
有名なスパルタ式の学習塾に通っていた。
学校が終わったら,いったん帰宅し,軽く食事をとる。
私は鍵っ子だったから,軽いモノくらい自分で作ってしまう。
その後,塾に直行。
授業時間は六時から九時まで。
先生がやたらに「根性」とか「気合」とか言っている授業を,
みんな頭に鉢巻を締めて,真剣に聞いている。
最後に全員で
「エイ,エイ,オー!」
なんて鬨の声を上げて,ようやく授業が終わると,
生徒たちは三々五々帰宅する。
いつもだったら,終了時間になると,
母が私を車で迎えに来てくれるのだが,その日は姿が見えなかった。
携帯に連絡すると,
「ごめんね,どうしても帰れないのよ」
と,申し訳なさそうに答えた。
当時母は会社員だった。残業中で帰れないそうだ。
やむなく私は,夜道を一人で歩いて帰ることにした。
暗い住宅街を,急ぎ足で歩く。人通りは少ない。
今にも向こうの物陰から誰かが飛び出してくるんじゃないか,
変な人が後をつけてくるんじゃないかと思うと,ものすごく気持ち悪い。
そんな不安を振払おうと,足を速めた。
「怖くない」って思えば,ぜんぜん怖くないんだ。
こんなもん,平っちゃらだ― ―。
だが,行く手に大きな暗い森が立ちはだかった。
その手前で,完全に足がすくんでしまった。
ここを通り抜けなければ,家には帰れない。
でも私には,とてもそんな勇気はなかった。
街灯の下で立ちすくんでいる私の背中を,ライトが照らした。
「フォ〜ン」っていう音が近づいてきた。
振り返ると,ライトは一つだ。オートバイか。
(いいな。あれに乗れば,こんなところ,あっという間に
通り抜けちゃうんだろうな)
なんて思っていると,そのバイクが目の前で停まった。
「お前,何やってんだ」
運転している男の人が,不審そうに問いかけてきた。
「ダメじゃねえか。女の子が,こんな時間に一人で――」
私は怯えて,何も答えられなかった。
顔を見せないので,私が怖がっていると思ったのだろう。
彼はヘルメットを脱いだ。
私の好きな,SMAPの木村クンに似ている。
瞬間(カッコいい!)って思った。
事情を話すと,
「近くなのか? じゃあ連れてってやるよ。乗んな」
と言ってくれた。言葉は乱暴だけど,口調は優しかった。
考えてみれば,バイクに乗るのなんて,生まれて初めてだ。
ドキドキした。
「じゃあ行くぞ。しっかりしがみついてろよ」
そう言うと「キムタクの兄ちゃん」は,いきなり発進した。
(わっ!)
振り落とされそうになって,思わず背中にしがみついた。
速い速い。風景がビュンビュン後ろに通り過ぎていく。
空気が顔にぶつかり,ショートカットの髪が後ろに引っ張られる。
「風を切って走る」って,このことなんだなと,妙に納得してしまった。
「こんな時間まで勉強してんのか? おもしれえのかよ」
運転しながら,兄ちゃんが呆れたように言った。
「おもしれえか」と聞かれても,困ってしまう。
自分が興味あるもの――特に理科の宇宙の話なんか――を
勉強しているときは,確かに面白い。
でも興味がないものは面白くも何ともない。
しかし不思議に私は小学生の頃から,勉強することが苦痛ではなかった。
だがそう問われたとき,初めて
「私は何のために勉強しているんだろう?」と思った。
あっという間に,自宅のマンションの前に着いてしまった。
何だかすごく物足りない。別れ際に兄ちゃんが言った。
「こんな時間に,女の子が一人歩きなんかするなよ。
それにオレだったからよかったけど,今後は絶対に知らないヤツの
車なんかに乗るんじゃねえぞ」
私は素直にうなずいた。
街灯の下で,バイクが鈍く銀色に光っている。
バイクの名前なんてちっとも知らないけど,
シートの下に刻印されている「刀」という文字が,カッコいいと思った。
「キムタクの兄ちゃん」は,変身ヒーローみたいに
颯爽と走り去っていった。
その夜,私はベッドに入ってからも,
しばらく胸がドキドキして眠れなかった。
天井に貼ってあるキムタクのポスターが,私を見下ろしていた……。
次の日曜日,私は駅前の本屋さんに,本を買いに行った。
キムタクと同じくらい好きな,宇宙飛行士の毛利衛さんが書いた本だ。
内容は半分くらいしか理解できないだろうけど,
どうしても読みたかったのだ。
帰りにコンビニの前を通りかかると,
駐車場に銀色のバイクが置かれていた。
シートの下の部分に「刀」のロゴがある。
思わずまじまじと見つめていると,バイクの持ち主らしい若者が,
コンビニの中から現れた。
「――!」
先日の「キムタクの兄ちゃん」だ!
「あっ! お前,この間の――」
兄ちゃんも,びっくりしたようだ。
「何だ,兄ちゃんもこの近所だったの」
パンやら,缶コーヒーやら,雑誌やらが入ったビニール袋を左肘に
ぶら下げて,兄ちゃんはバイクにまたがった。
この前は暗くてよく判らなかったけど,皮ジャンにジーンズ,
黒いブーツを穿いて,いかにも「バイク乗り」っぽい格好だ。
「相変わらず勉強やってんのか」
私が手に抱えている本に,チラッと目をやった。
「この間言ったとおり,知らないヤツの車に乗ったりしてねえだろうな」
それは大丈夫。私だってそこまで軽薄じゃない。でも……
「ねえ,また後ろに乗っけてよ」
私は,思い切って言ってみた。
「ダメダメ。お前,メット持ってねえだろ。メットのねえヤツは,
ホントは乗っけちゃいけねえんだよ」
兄ちゃんは呆れたようにように言った。
でも私はどうしても,もう一度あの「風」を感じてみたかったのだ。
重ねておねだりしたが,なかなか「うん」と言ってくれない。
だから矛先を変えてみた。「将を射んと欲すれば,まず馬から射よ」だ。
「だってお兄ちゃん,すっごいカッコいいんだもん。憧れちゃうな……」
ついに兄ちゃんが折れた。
「しょうがねえなあ,じゃあ,ちょっとだけだぞ……」
チョロいもんだ。
「いいか,ホントにちょっと走るだけだぞ」
毛利さんの本を左手のビニール袋に詰めると,
兄ちゃんは私を後ろに乗せた。
ワクワク,ドキドキする。こんな気持ちになるの,久しぶりだ。
だが発進した途端,後ろのほうでサイレンが鳴り,
スピーカーの声が響いた。
「そこのバイク,左に寄って止まりなさい!」
「やべえ,オレもう点数ねえんだ。ズラかるぞ!」
点数って何。バイクに乗るのに,いちいちテストなんかされるの?
私がマヌケな質問をすると,
「バカタレ,こうなったのもお前のせいだ!」泣きそうな声で答えた。
速い速い。
絶叫マシンなんかメじゃない。幹線道路から脇道に抜け,
あっという間にパトカーを振り切ってしまった。
住宅街の中にある公園の前でバイクを降り,やっと一息ついた。
公園のベンチに,並んで腰を下ろした。
「パトカー振り切るなんて,久しぶりにやっちまったよ。
『もう二度とやりません』って,親っさんと約束したのに……」
兄ちゃんは肩を落とし,良心の呵責に耐えかねたように言った。
『親っさん』とは,職場の親方さんだそうだ。
「大体,お前がいけねえんだ。女のガキのくせに
バイクに興味持つなんて,相当変わってるぞ。おかげでこっちも,
つい自慢したくなっちまったじゃねえか」
「うん,でも自慢するだけの腕前はあったよ」
生意気に答えると,兄ちゃんは思わず私の顔を見返した。
二人して顔を見合わせて,笑ってしまった。
兄ちゃんは,歳は十七だそうだ。中学を出て,すぐに働いているらしい。
給料のほとんどがバイクのために消えて,
毎日アンパンばっかりかじってる,なんて笑っていた。
アンパンじゃなくて,親の脛をかじっている身分の私にとっては,
十七で働いて一人暮らしをしているなんて,驚嘆に値することだ。
「お父さんやお母さんはいないの?」
無遠慮に尋ねると,兄ちゃんは答えた。
――親父はオレがガキの頃から,家になんか寄りつきゃしねえ。
たまに帰ってきたと思ったら,お袋を殴りつけてばっかりいた……。
本人が言うには,
兄ちゃんは中学の時「手のつけられないワル」だったそうだ。
盗んだバイクを改造して,仲間と乗り回していたという。
――あの頃は,今みたいにバイクを可愛がっていなかった。
お袋はオレが悪いことをして警察に呼び出されても,
泣いてばっかりいるだけで,何も言わなかった。
考えてみれば,オレはいつも周りの大人から,
ほったらかしにされてきた。
ただ一人,中三のときの担任の先生だけは別だった。
オレを本気で叱ってくれた大人は,後にも先にもあの先生だけだ。
必死になってオレを立ち直らせようとしてくれた。
あの人と出会っていなかったら,
オレは今ごろ,どうなっていたか分からない……。
私も小さい頃に父を亡くして,母に女手一つで育てられてきた。
だから,兄ちゃんの持つ孤独感のようなものが,理解できる気がした。
兄ちゃんの左頬には,細く長い傷跡が刻まれている。
――これか?
傷跡を撫でながら,恥ずかしそうに言った。
――別に,喧嘩でできたもんじゃねえよ。現場で機械と接触しちまったんだ。
これのせいで人相悪くなって,女の子が寄りつきゃしねえ。
でもその傷跡で,得することもあったそうだ。
――先日も,女の子が四,五人のチンピラにからかわれているのを
見たんで,助けてやったんだ。周りを取り囲まれたけど,この傷を
見せて凄んでやったら,みんなビビって逃げちまった……。
――カッコいいだろ。
兄ちゃんは,バイクのほうに顔を向け,誇らしげに言った。
「こいつに乗りたかったから,オレはツッパリをやめたんだ……」
冬の午後の黄色い日差しが,銀の車体に反映している。
ひときわ目立つのが,「刀」のロゴ……。
(なるほど,キムタクのイメージにぴったりのバイクだな)と思った。
「ねえ,これからもバイクに乗っけてよ」
私は,やっぱり子供だった。
兄ちゃんの都合なんか考えずに,自分の希望を押し付けた。
でも兄ちゃんの背中で風を感じているとき,
私は今までの自分ではなくなるような気がするのだ。
小さいころから,私はずっと,親や先生にとっての「いい子」だった。
「明るくて,素直で,出来がいい」なんて言われ続け,
みんなの期待を裏切るまいと,一生懸命努力してきた。
そんな私が,初めて誰にも邪魔されない「私だけの時間」
を持つことができた。
風を感じているとき,
私は「いい子」なんかじゃなくて,「私」になれるのだ。
そんな気持ちを,何とか伝えようとするのだけれど,
どうしてもうまく言葉に表すことができない。
もどかしかった。
結局,言葉なんて不完全なもので,
本当の気持ちを百パーセント伝えることなんて,できないのかな。
ずっと前に本で読んだ『不立文字』(ふりゅうもんじ)という
言葉を思い出した。
兄ちゃんは苦笑していた。しばらく考えていたが,
「じゃあ,来週のこの時間に,この公園に来いよ」と言った。
「ただし,必ず今日みたいにジーンズを穿いてくるんだぞ。じゃないと,
絶対乗っけねえからな……」
一週間後,兄ちゃんは約束の時間に,約束どおり来てくれた。
「ほらよ」
赤いヘルメットを手渡した。私のために買ってくれたのだそうだ。
ヘルメットだって二,三万はすることを,そのころの私は知らなかった
から,気軽に「あっ,ありがとう」なんて言ってしまった……。
兄ちゃんの後ろに乗るのは,これで三度目だ。ワクワクする。
でも道路に出てみると,
走り方がすっかり大人しくなってしまっているのは不満だった。
交通量の少ない道ばっかり通って,速度もあんまり出さない。
私は,もっともっと風を感じたいのだ。
「スピード上げてよ」とせがむんだけど,
「ダメだ!」と強く言う。
「知らねえ中学生の女の子を後ろに乗っけて連れ回すなんて,
ホントはとんでもねえことなんだ。だから事故だけは絶対に
起こさねえからな……」
こうして時々,兄ちゃんは私を後ろに乗っけて,
あちこちに連れて行ってくれるようになった。
あちこちといっても,せいぜい隣町くらいまでだったけど。
でも「親からも先生からも期待される優等生」だった私にとって,
こうして「カッコいい兄ちゃん」の後ろで風を感じるのは,
誰にも内緒の「至福の時」だった。
ところが,ある時を境に,兄ちゃんはぷっつりと姿を見せなくなった。
全く何の音沙汰もなくなってしまった。
私はときどきあの公園に行き,あてもなく待ち続けた。
でも銀色のバイクが現れることは,二度となかった。
それから,十年あまりの時が流れた。
何の取柄もない私だったが,勉強だけは誰にも負けたくなかった。
だから一生懸命努力して,世間では「一流」と言われている大学を卒業
し,大手の企業に就職した。
母も,女手一つで私をここまで育てるのは,大変だったろう。
これからは「バリバリのキャリアウーマン」になって,
今まで苦労をかけた分,うんと楽をさせてやるんだ。
ただ私は就職してから,免許を取ってバイクに乗り始めた。
「自分で稼げるようになったら,絶対に乗るんだ」と,
長いこと思っていた。
母は「他にどんな趣味を持ってもいいけど,バイクだけはやめておくれ」
と言う。
でも,母の言うことには何でも従ってきた私だったけど,
これだけは絶対に譲れなかった。
ある日私は,東京からはちょっと離れた山奥まで,ツーリングに行った。
「峠を攻める」なんて偉そうに言えるような腕前は,
とても持ち合わせてはいないが,山道を駆け抜けながら風を感じるのが,
私はいちばん好きなのだ。
クネクネと折れ曲がる,新緑の山道をローリングしていると,
仕事のストレスなんて一気に吹き飛んでしまう。
(やっぱり母さんが何と言おうと,こればっかりはやめられないな……)
頂上の展望台で一息ついていると,私のすぐ横に,
銀色のバイクが停まった。
「峠,走るのかい?」
銀色バイクの男が,無遠慮に話しかけてきた。
(何よ,なれなれしい人だな)
私は横目で睨みつけた。デリカシーのない人は嫌いなのだ。
しかしヘルメットを脱いだその横顔に,微かに見覚えがあった。
(どこかで会ったのかな?)
まじまじと彼の横顔を見つめる私の脳裏に,
次第に十年ほど前のあの日の光景が,ありありと甦ってきた。
左頬の傷,間違いない――。
「キムタクの兄ちゃん」だ! あの頃よりもっとカッコよくて,
すっかり「大人の男」になっている……。
(何だ,兄ちゃん,相変わらずカタナなんかに乗ってるのか……)
私は,吹き出しそうになった。
同時に,あやうく涙がこぼれてしまうところだった。
「峠走るにしちゃ,タイヤの横のほうが全然すり減ってねえじゃねえか。
よけりゃ,オレが教えてやるぜ。ついてくるか?」
私は,一も二もなくうなずいた。
兄ちゃんは,相変わらず速い。ついていくのが精一杯だ。
これでもずいぶん,私のペースに合わせてくれているんだろうけど。
途中のY字路を,左に曲がった。
(あっ,そっちだと麓に戻っちゃうよ)
私は教えたかったのだが,伝わるはずもない。
もっと長いこと一緒に走り続けていたいのに……。
でも兄ちゃんは構わずに,どんどん走っていく。
私は離されまいと,必死でついていく。
走りながら,ふと思った。
――後ろに乗せてもらうのと,自分で走るのと,どっちがいいだろう?
十年ほど前は,行き先も何も,すべて兄ちゃん任せだった。
でも今は,まがいなりにも自分の力で走っている。
私はやっぱり,自分で走るほうが好きだ……。
峠の売店の駐車場に乗り入れ,停車した。
こんな速いペースで走ったのは初めてだったから,
ちょっと興奮して,顔が上気していた。
「なかなかよくついてこれたよ。でも,まだまだ初心者マークって
とこだけどな」
相変わらずの口調だ。
そりゃまあ,兄ちゃんに比べれば,私なんて
ヒヨコもいいところでしょうけど……。
そのとき,遠くの方から,
「ズズズ……。」
地を震わせ,鈍い響きが聞こえてきた。
(何,今の !?)
私は思わず兄ちゃんの顔を見た。でも兄ちゃんはそ知らぬ顔をして,
「じゃあ,ここで別れるからな。気をつけて帰れよ」
と言って,走りだした。
「あっ,待って,待ってよ……」
(ここで別れたら,もう二度と会えなくなる――!)
私は必死に追いすがった。
でも兄ちゃんの1100カタナは速かった。
峠道をハングオンしながら,ものすごいスピードで走り抜ける。
私が操るホーネットなんかじゃ,とても追いつけない。
あっという間に見えなくなってしまった……。
次の日,朝刊を見た私は,
持っていたコーヒーカップを床に取り落としてしまった。
昨日私が走った峠で,トンネルの落盤事故があり,
多数の死傷者が出たのだ。
もしあのときY字路を右に曲がっていたら,確実に私も
巻き込まれていただろう。
だが私の目は,トンネル事故のニュースの横に書かれていた
小さな記事に,釘づけになった。
――○○県で発生したトンネル落盤事故現場のすぐ近くから,男性のもの
と見られる遺体が発見された。遺体は完全に白骨化しており,死後数年が
経過しているものと思われる。警察では付近で発見された免許証から,こ
の遺体は今から十一年前に行方不明になり,家族から捜索願いが出されて
いる,当時十七歳の少年ではないかと見て,現在捜査している……。
了