カタナの男番外編

私の名前は、田中広子。地元の区立の学校に通う、中学一年生だ。
「上から読んでも下から読んでも、何の変哲もない名前だね」
だなんて、よく言われる。確かに自分でもそう思う。
お母さんは、本当は『樹美里』(じゅみり)という名前を付けたかったそ
うだ。でもお父さんが、断固反対した。
「日本人の女の子の名前は、○子でいいんだ!」
と言って、区役所の窓口で新生児の名前を登録する、その最後の瞬間まで
お母さんと口論していたという。

今にして思うと、広子でよかった。
お母さんの趣味って、はっきり言ってあんまりよくない。
自分の名前が『田中樹美里』だったら、なんて思うと、顔が赤くなって
くる。こればっかりはお父さんに感謝している。
でもそのお父さんは、私がまだ幼稚園の頃に亡くなってしまった。
お父さんの面影は、アルバムと、何本かのビデオテープに遺されている。
私がまだ生まれる前のころから、亡くなる直前までの様子を、
ホームビデオで撮影してくれていた。
ときどきそれを取り出して見るけど、
けっこうハンサムで、かっこいいお父さんだ。

以来、お母さんが女手一つで私を育ててきた。
お父さんとの出会いの場所でもある会社に、今も勤めている。
気は強いけど、明るくて優しいお母さんだ。
仕事が大変なときも、私のために頑張ってくれていることがよく分かる。

そんなわけで、私は健全に育っている。
これもすべてお母さんのおかげだと思う。


今日は「キムタクの兄ちゃん」とデートの日だ。
兄ちゃんとは、先日、ひょんなことから知り合った。
私が塾の帰り道、暗い森の前で、怖くて立ちすくんでいるところに、
バイクで通りかかり、家まで送ってくれたのだ。
そのとき、生まれて初めて、バイクの後ろに乗せてもらったけど、
世界が変わったような気がした。
自転車しか乗ったことのない私にとっては、
空気があんな勢いで顔にぶつかってくるのなんて、新鮮な驚きだった。

それ以来、ときどき兄ちゃんのバイクの後ろに
乗せてもらうようになった。
もっとも、むこうは「デート」だなんて思っているのかな?
一週間か二週間にいっぺん会って、
二、三時間ほどかけて隣町まで行って帰ってくるだけだし。
私を元の公園で降ろすと、
「じゃあな」
と言って、どこへともなく去ってしまう。
それでも、私は十分楽しいんだけど……。

いつもの公園で待ち合わせ。
私はGパンにジャケットといういでたちで、ベンチに座って待っている。
「スカートなんか、絶対に穿いてくるなよ。上にも、
ジャケットかジャンパーを羽織ってこい」
という言いつけを、いつも忠実に守っている。
時間どおりに、兄ちゃんは現れた。
乗っているマシンは、スズキのGSX1100S。
通称「カタナ」と呼ばれているバイクだそうだ。
「よう」とだけ言って、ヘルメットを手渡し、
私を後ろに乗せると、何も言わずに出発した。

途中で、兄ちゃんの馴染みのバイク屋さんに寄った。
けっこう大きな店で、一階が整備場、二階が展示室と
喫茶室になっている。
バイク屋さんに入るのは初めてだ。
思ったほど汚いところじゃない。
というよりも、想像以上にきれいなので、ちょっとびっくりした。
珍しいので、辺りをキョロキョロ眺めた。
皮ジャンやジャケットが、何十枚も、洋服屋さんみたいに
ハンガーに吊るされ、壁ぎわの棚には、ヘルメットが陳列されている。
こっちの棚には、グローブやゴーグルや、何だかわからない
部品のようなもの。
ガソリンとオイルの臭いがたちこめ、赤やグレーや、
色とりどりの新車が、ショーウィンドウから差し込む陽射しを浴びて、
キラキラと輝いている。
今のバイクって、なんだかアニメに出てくる宇宙船みたいだな……。

「よう」
「おう」
喫茶室で雑誌を読んでいた先客に、兄ちゃんが声をかけた。
バイク仲間らしい。
「こんにちは」
私はすまして、行儀よく挨拶した。
こんなところで点数上げておかなきゃ損だ。
「へえ、かわいい子じゃないの。お前にこんな妹がいたのか?」
妹って……。まあ、年齢的にそう見えてしまうのは、
仕方ないだろうけど。
でも、友達には私のことを、何て紹介してくれるんだろう?
まさか「彼女」とまではいかないだろうけど、
こんなふうに付き合ってくれているんだもん、けっこう
意識してるんじゃないかな ……
だがそんな私の淡い期待は、次の言葉で、はかなくも打ち壊された。
「ああ、こないだから、なんか知らねえけどチョロチョロつきまとって
るんでな、しょうがねえから後ろにくっつけてるだけだ」
……ガーン!

川沿いの堤防の上の舗装路を、トコトコと走っている。
小春日和の下で、釣人がのんびりと釣糸を垂れている。
土手の上を、ジャージ姿でジョギングする人。
子犬を連れて散歩するおばさん。
いかにも平和な、春先の光景だが、私はずっと仏頂面だった。
「なに怒ってんだよ」
笑ったような声で、兄ちゃんが問いかけた。
私はふてくされて、答えなかった。
だってひどいじゃない、「つきまとってる」だなんて。
「後ろにくっつけてる」だなんて……。
そんな傷ついたアタシの「乙女心」も知らずに、
「めんどくせえから、これからも『妹』ってことにしておけ」
なんて、さらに追い討ちをかけた。

「あっ、ちょっと停めて!」
「何だ、どうした?」
急停車した。兄ちゃんの背中に、鼻先をぶつけてしまった。
堤防の斜面の草の上に、独りポツンと座って、川面を見つめている
男の子がいる。
クラスメートの加藤君じゃないかな……。
「知り合いか?」
「うん、ちょっとね……」
声をかけるつもりはなかった。
だって、バイクに乗せてもらっているなんてことは、
親にも内緒なんだから。
停めてもらった理由は、別のところにあった。
彼は泣いていたのだ。川面を見つめながら、顔をクシャクシャにして、
時おり袖で目を拭っている。
とても声をかけることができないような、本当に辛そうな様子だった。


加藤君はおとなしくて、いるのかいないのか分からないような、
目立たない子だ。
だが、彼はあることで、学年でも有名だった。

同じクラスに、三人組の男子がいる。
いつも三人でつるんで、ギャアギャア騒いでいる連中で、
私はハッキリ言って大嫌いなんだけど、加藤君は彼らと仲がよかった。
一学期のはじめから、加藤君は子分のように彼らにくっついていた。
一緒にワイワイ言いながら、ときどき頭をどつかれたりして、一見、
いかにも親しそうに見えた。

そのうち、休み時間に体育館のマットの上でプロレス技をかけられたり、
ボクシングのまねをするようになった。
しかし最近では、プロレスごっこやボクシングごっこがエスカレートして
いるようで、加藤君が顔を腫らしたり、鼻血を出しているのを、
たまに見かけるようになった。
あれは「仲がいい」って言うんだろうか。
はたから見ていると、ときどき分からなくなることがある。

朝、登校するとき、加藤君はいつも三人組のカバンを持たされている。
休み時間に「パン買ってこい」「少年ジャンプ買ってこい」
なんて言いつけられて、そのたびに彼は、言われたとおり、
お使いに行く。
ああいうのって、本当に「友達」なんだろうか?
私だったら、仲良しの友達には、
絶対にそんなことを言いつけたりはしない。
男の子の場合は違うんだろうか。
三人組は最近、妙に金回りがよくなったようで、
ときどき学校に高価な品物を持ってきたり、一万円札を
見せびらかせている。

「ねえ、こういうのって、ひょっとして『いじめ』じゃないのかな?」
兄ちゃんだったら、何かいいアドバイスをしてくれるかもしれない。
ひょっとしたら、加藤君がいじめられているところに、
変身ヒーローみたいに現れて、助けてくれるんじゃないだろうか。
頭の片隅で、そんな甘っちょろいことを考えながら、
学校でのできごとを説明した。
兄ちゃんは何も言わず、黙って私の話を聞いていたが、最後に一言だけ、
ポツンと言った。
「で、お前は黙って見ていたのか?」
その言葉が、グサッと胸に突き刺さった。

そう。確かに私は黙って見ていた。
「いじめじゃないだろうか」と、薄々は感じていたが、
「でも、ひょっとしたらふざけ合っているだけかもしれない」
とも思っていた。
三人組はいつもゲラゲラ笑いながら、加藤君の頭をはたいたり、
ケリを入れたりしている。
加藤君も笑っていた。
でも今から考えると、あの笑いは、決して楽しんでいる顔ではなかった。

一度だけ、加藤君と目が合ったことがある。
教室の後ろで、あいつらに周りを取り囲まれている加藤君が、
ふと私のほうに顔を向けた。
ほんの一瞬、彼は救いを求めるような目で私を見た。
しかしすぐに、女の子の前でこんな姿を見せていることが屈辱であるかの
ように、唇を噛み、目をそらせた。
そうだ。あれは絶対に「ふざけ合って」なんかいなかった。
いじめられていただけだ。

でも、それを黙って見ていた私はどうなのか。
加藤君はあのとき、助けを求めていたのではないのか。
それを見て見ぬふりをするというのは、結局はいじめに荷担していると、
同じことなんじゃないか。
(で、お前は黙って見ていたのか……)
兄ちゃんの声が、頭の中で、いつまでもこだましていた。

その翌日、三人組が、また教室の後ろで加藤君をからかっていた。
お互いに箒を持って、チャンバラごっこでもやっているようだが、
よく見れば加藤君が一方的に殴られているだけだ。
「面!」「胴!」
なんて掛け声を上げて、箒の柄で加藤君の頭や体を、かなり強く
打ちつけている。
加藤君は力なく笑いながら、
「やめてくれよ……」と言っている。
どう見たって、こんなの「いじめ」以外の何ものでもないじゃないか。
止めなきゃだめだ。

そうは思うんだけど、いざとなると、なかなか勇気が湧いてこない。
だって相手は三人だし、私は女の子だ。
ためらう私の頭の中に、ふいに兄ちゃんの声が聞こえてきた。
(黙って見ているのか……)
その声が、背中を押した。ついに私は決心して立ち上がった。
「あんたたち、いいかげんにしなさいよ!」
「加藤君が嫌がってるのが、わからないの !? あんたたち、カッコ悪いよ。
大勢でよってたかって弱い人をいじめるなんて、最低だよ。
ホントに男らしい人だったら、そんなこと絶対にやらないよ!」
一気にまくしたてた。
「男らしい人」と言ったとき、思わず兄ちゃんの顔が頭に浮かんだ。

教室じゅうの人が、びっくりして見ていた。
でも私はひるまなかった。
突然の出来事に、三人は一瞬ポカンとしていたが、すぐに
「うるせーよ」
「お前に関係ねーだろ」
なんて言いだした。
でも、私は絶対に一歩も退かないぞ。
だってこんなの許せない。男らしくない。
思いっきり睨みつけてやった。

「お前ら、何やってんだ。早く席に着け」
クラスのみんなが固唾を飲んで見守っているところに、
先生が入ってきた。
みんな慌てて着席した。
私は、正直言って救われたような気持ちになった。
「広子ちゃん、どうしたのよ、急に」
隣の席の仲良しの香ちゃんが、心配そうに話しかけてきた。

それからの一週間、私は、いや、正確に言えば「私たち」は、
みんなで加藤君を守ってあげた。
真っ先に香ちゃんが協力してくれた。事情を話すと、
「わかった。あたしも力になる」
と言った。やっぱり持つべきものは親友だ。
それからは、教室の中で加藤君がいじめられそうになると、
二人で飛んで行ってやめさせた。
一人より二人のほうが、だんぜん心強い。
そのうち協力する人が三人になり、四人になった。嬉しかった。
みんな見るに見かねていたんだ。
誰かが口火を切るのを待っていたんだな……。

一週間目の夜のことだ。
私がテレビを見ていると、母がとつぜん風呂場で、
悲鳴のような声をあげた。
「広子、これどうしたの!」
(えっ、なに、何が起こったの?)
慌てて風呂場に飛んで行くと、洗濯機の前で、
母が私の体操着を広げて持っている。
その背中の部分に、赤いマジックで、大きく「バカ」と書かれていた。

「何があったのか、はっきり言いなさい!」
正座して向かい合っている私を、すごい剣幕で問い正した。
まるで私が何か悪いことでもやって、怒られているようだ。
やむなく、すべての事情を話さざるを得なかった。

「あんた、しばらく学校に行かなくていいよ」
私の説明を聞いているうちに、徐々に落ち着きを取り戻したようだ。
穏やかな口調だった。
そんなことが行われている学校に、お前を通わせるわけにはいかない。
とても安心して任せられない。
「お母さんは、あんたを守るためだったら、どんなことでもするからね」

三日間、学校を休んだ。その間、母も私と一緒に会社を休んだ。
例の体操着を「証拠物件」として学校に持って行き、私を交えて、
校長先生や担任の先生と直談判に及んだ。
「いえ、日頃から明るくて成績も良い広子さんが、こんなことになってい
るとは、私どもとしましてもまあ、驚くばかりで……」
先生たちは青くなっていた。
母は加藤君のご両親にも会い、おまけに三人組の家にまで
乗り込んでいったそうだ。
その夜、遅くに帰ってきた母は、疲れた顔で私を見て言った。
「お母さんは、絶対に負けないわよ!」

「もう大丈夫だから、今日から学校に行きなさい」
そう言われたのは、四日目の朝のことだ。
何が大丈夫なのか、さっぱり分からないけど、言われたとおり教科書や
ノートをカバンにつめて、久しぶりに登校した。
今から行くと完全に遅刻だ。四日ぶりの登校で、しかも遅刻となると、
さすがに教室の扉を開けるのには勇気が必要だった。
「お早うございます」
思い切って中に入ると、何となく空気が張りつめている。
加藤君と三人組の席が空いている。
一緒になって休んでいるんだろうか。
「広子ちゃん、大変だったね」
香ちゃんが、小声で話しかけてきた。
どうも今日は、なんだか様子がおかしい。

その日、体育館に全学年の生徒と先生が集合して、
緊急の全校集会が開かれた。
先生たちは加藤君の名前こそ挙げなかったが、
「人の心の痛みを知ろう」
「本当の勇気とは何か」
なんて話を聞かせた。
私は、自分が原因でこんなおおごとになっているのが、
ちょっと信じられなかった。

それ以来、三人組はすっかりおとなしくなった。
先生に怒られただけじゃなく、警察の少年課のお巡りさんからも
事情を聞かれたりして、けっこう大騒ぎになったそうだ。
そのあとクラス替えが行われて、加藤君は別のクラスに移った。
少なくとも私の目の届く範囲では、二度と彼が
いじめられることはなくなった。


でも、本当にこれでよかったんだろうか。
私は釈然としなかった。
あの三人は、本当に反省しているんだろうか。
自分で言うのも変だけど、「優等生」の私が被害に遭ったときは、
学校側はあんなにも迅速に手を打った。
もちろんその影には、母の懸命の努力があったかもしれない。
でも、加藤君のときには何もやらなかったじゃないか。
先生たちは、本当にいじめがあったことに、
気づいていなかったのだろうか。
しかし、私には先生たちを非難する資格なんてなかった。
だって、結局、私は自分の力では何も解決できなかったのだから……。

もし兄ちゃんが私だったら、どうしていたんだろうと、ふと思った。
(やっぱり、体を張って加藤君を守ってあげたんじゃないかな……)
私の勝手な思い込みだけど、そうに違いないと確信した。

               了