〜夢想旅情〜
(第一話)
和室にベットが置いてある。パイプを組んだだけのシングル、安物だ。
壁際のTVでは、さっきから洋画が始まっている。B級SF物のようだ。
ベットには男が寝転がっている。が、TVを見ている様子はない。
横になっているが、目を開けているから眠ってはいないようだ。
もう、かなりの間身動きひとつしない。考え事でもしているのか。
マンションなどと言っても、大抵はコンクリート造なだけで、どう見てもアパートである。
まぁ、東京都内だから家賃も安くはない。割りと贅沢な住まいなのかも知れない。
男が寝転がっているのは、その一室だ。
玄関の表、鉄扉の左上の室名札に「佐々木三郎」とだけある。
どこかで聞いたような名前だが、彼は三郎、三男坊か。独り暮し、のようだ。
三郎は寝転がって考え事をする癖があった。今も、その状態だ。
どこから変になってしまったのか、三郎は最近イロイロと解らなくなっていた。
仕事もプライベートも、イロイロと言ったららイロイロなのだ。三郎の生活全部のことだ。
とにかく、三郎が気がついたときには、わけの解らない状況だった。
解らないながらも考えて、とりあえず結論のようなものが出た。
「考えていても、、、仕方がないなぁ・・・。」
それ以上考えても、行き詰りになりそうな気がしたからだ。
あれもこれも、とにかく一度清算することにしたのだ。リスタートするつもりだ。
それで、もう気持ちの整理はついていたはずなのだが・・・。
三郎の胸には、まだナニカが引っかかっていた。彼は思っていた。
そう、あの時。アノあたりからかも知れない。オカシクなり始めたのは。
まず、付き合っていた女に振られた。会社の同僚だった。
女は25歳。一年くらい付き合って、プロポーズしたのだ。
指輪を見せた数分後には、笑い飛ばされた。ふざけた話しだ。
まったく呆れた女だった。可愛い顔をして、二股をかけてイヤがったのだ。
会社の人事部の部長とも付き合っていた。三郎は営業部の課長だった。
容姿は申し分ないから、あの女と付き合うのを拒む男は稀だろう。
女のフレンドリーな性格は魅力の一部だったし、
そこまで割りきって遊ぶタイプには見えなかった。だからプロポースしたのだ。
要は三郎は都合の良い遊び相手で、本命はその部長だったわけだ。
女が、そのことを話し出したときにも最初は冗談だと思った。
あまりケロリとした表情で、ぬけぬけと喋る言葉は途中から耳に入らなかった。
まぁ、白けた感情と憤りが残っただけで、怒りが湧いてこなかったのが救いか。
それからしばらくして、仕事が突然頓挫した。
億単位の契約が、契約締結の直前にキャンセルされたのだ。
三郎の担当していた顧客が倒産してしまった。考えようによっては契約前で良かった、が。
三郎の責任ではないが、似たようなトラブルは三郎にとって二年続きだ。
昨年も、いきなり潰れた会社の担当を任されていた。まったくツキがない。
どうやら、次の人事ではろくなことがなさそうな気がする。三郎の勘では、だ。
上司からは次の仕事の指示もない。結果的に干されている、ように思う。
周りの連中も、どことなく連れない。なんとなく冷たい。後ろ指を感じるのだ。
だが具体的に、何か言われたとか、そういうことは何もないのだ。
三郎自身の気の持ちようかも知れない。三郎自身も、そんな気がしていた。
スッキリとするわけはない状態だが、それ以上に彼自身は疲れを感じていたのだ。
神経が参っているようだ。三郎は、そう思うようになっていった。
三郎は、二ヶ月ほど前から「視線」を感じていた。
通勤は晴れていればバイクだ。学生時代からの趣味を兼ねている。
さすがに雨の日はスーツでは無理がある。だから地下鉄を利用する。
営業は外回りが多い。通勤ルートも一定ではないから定期券などは持ったことがない。
もっとも会社ではバイク通勤を認めてはいない。黙認しているだけなのだ。
事故でも起こしたら厄介なのだが、それを考えたらバイクには乗れない。
あるときから、通勤途中に、誰かが後をつけて来るような気がし始めた。
バイクのときばかりでなく、地下鉄構内でも、電車内でもそうだ。見られている。
自分の部屋に居ても、なにか落ち着かないことが多くなった。
「俺は、ダレかに見張られている。」
いよいよ、三郎はそう思うようになっていった。
悪意は感じられない。実害もない。ただ、ジッと見つめられている感じだけだ。
現実に不具合なことは何もないから、よけい気持ちが悪い。
かといって、三郎自身も自分が「異常」と思いこむほど内向的でもなかった。
彼自身が異常でないのなら、オカシイのは周りだ。
周りのナニがオカシイのか。具体的なことは三郎にも解らない。わけもなく、だ。
ただ、会社へ行くことや、毎日の生活自体が、居心地悪く思えて仕方ないのだ。
「えぇい、辞めてしまえ!」
かなり短絡的だ。と、辞表を出してから思った。三郎自身がだ。
アパートは会社が借り上げているものだが、いきなり追い出されたりはしない。
家賃さえ納めていれば数ヶ月は居られる。時間は十分にあるのだ。
「とりあえず旅に出よう。それからだ、先のことは。」
気分転換にバイクも買い換えていた。エンデューロタイプだ。
明日は出発するのだ。とりあえず出かける、行き先は決めていない。
当座の生活には困らない。三郎は蓄えには自信があった。
三郎には商才があったようだ。以前から株式投資をしていたのだが。
欲がないからだろうか適当に成功していた。家の2軒や3軒はすぐにでも建つ。
周りにも、そのことを話すようなことをしなかった。欲がないというのはそういうことだ。
ギャンブルも好きだが、こちらは暇つぶし程度だ。大勝ちも大負けもしない。
それでも、競馬は馬が好きだから結構凝った。凝っただけで儲けたわけではないが。
つまり、その気になれば自分で商売や事業を始めるのは難しくないのだ。
元手は十二分にあったのだ。事業のセンスもあるはずだ。
だが、今はその自信はない。気力がないのだ。
そう、ちょっと前まで、自信があるのは蓄えだけではなかったはずだ。
まぁ、ナニも自信がないよりはマシか・・・。
女に振られた。吹っ切ったつもりだ、が。惚れていたのだ・・・。
仕事も頓挫した。職場も居心地が悪くなった。好きでやっていた仕事だ・・・。
頭がイカレてきているのかも知れない。仕事を辞めたのもそのせいか・・・。
ベットに寝転んだが、眠くならなかった。それでアレコレ思い巡らせていたのだ。
「俺は、、、もっとお気楽なタチだったんだが、なぁ?」
そう思い始めた、途端。吸いこまれるように、三郎は眠りに落ちていった。
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(第二話)
あくびをしながら三郎は起き上がった。昨夜が嘘のように、頭はスッキリしている。
もう、昼近い。
旅からいつ帰るとも決めていないから、イツ出かけるのかも決めていない。
とりあえず、今日出る。決めたのはそれだけだ。
三郎は、玄関を出ようとして気がついた。小包が1個、ドアの前に置いてあったのだ。
宅急便なら、黙って置いていくわけはない筈だが。妙だ。
宛名は佐々木三郎とある。三郎宛の荷物であることは間違いない。
伝票に中身は「ガソリンタンク(3L)」とある。なんだろう?まるで、分からない。
開封すると「モニター使用の依頼」という文書が入っていた。
予備用の携帯ガソリンタンクだ。タイムリーと言えば言える。
これから旅に出るのだから、持っていて損はあるまい。
三郎には、モニターに応募した覚えなどないが、まあいい。貰っておけばいい。
三郎は荷造りしておいたバッグ類をバイクに付け、アパートを出た。
派手という言葉は、そのヘルメットのためにあるような、レプリカタイプのフルフェイス。
上下はバトルスーツだ。前から着てみたかったのだが、照れがあってやめていた。
この際、人からどう見られるかなど、もう、どうでもいいと思ってオーダーしたのだ。
バイクはエンデューロ車としては定評があるものだ。
給排気系をチューンした、ツモリである。排気音が大きくなったことが、一番確かに体感できた。
かなりチグハグな奇妙な取り合わせだ。それも、どうでも良かったのだ。
キャンプ道具は一応積んだが、なるべく宿を探すつもりでいた。
この際、費用のことなど考えの外だ。考えていたら旅に出たりなどしない。
遅い朝飯をコンビニで済ませた。握り飯だ。
空腹は苦手だがグルメ趣味はない。腹がふさがっていればいいのだ。
「うん?」
銀行のCDで、手持としての現金を引き出した三郎は、首を傾げた。
滅多に預金通帳に記帳などしたことはなかったが、今日はついでに記帳したのだ、が。
先月末に「500万円引き出し」て、「500万円入金」したことになっていた。
横着に普通預金のままにしてある。定期にしたところで利子など殆どつかないからだ。
記入されていた桁数が飛びぬけていたから、一見して目にとまった。
金曜日に引き出して月曜日には入金されている。三郎には無論、覚えはない。
普通であれば、かなり気になるはずだが、あえて三郎は考えるのを止めた。
「いいや、減っているわけじゃなし・・・。」
せっかくの旅立ちにケチをつけたくなかったのかも知れない。
三郎は中央高速に乗った。大月から河口湖方面へ回る。
結局出掛けたのは昼過ぎだから、今日は山梨か長野あたりまでしか出られない。
どうせなら富士山を眺めていこうと思っただけのことである。
せっかくの富士山も中央高速からは殆ど見えないからだ。
時間的にはかなりの回り道だが、先を急ぐ事はないのだ。
甲府盆地方面へは御坂峠を越えることにした。
富士山はいい、なんと言っても日本に二つない山である。
何回見ても飽きることはない。それに三郎はしばらく富士山を見ていなかった。
河口湖市内で、思い出してガソリンを補給した。
満タンだ。例の予備タンクも、空っぽでは仕方ないから補給した。
御坂峠にかかり、新御坂トンネルの手前から三郎は右に折れた。
御坂の旧道である。三つ峠側から迂回し御坂峠に抜ける道だ。
少し道は荒れているが紅葉が美しい。あまり知られてはいないのだが。
三郎も通るのは初めてだ。何かに誘われるように、右折していた。
殆どすれ違う車がないほど、道は空いていた。時刻のせいか。
甲府側に抜ける御坂トンネルに差しかかる。
古い、むしろ隧道といったほうが雰囲気はあっている。
暗さに息苦しさを感じ始めるころ出口が見えてくる。
抜けた。ホッと息が抜ける。
「おやぁ?」
トンネルを出て十数メートル走った三郎は、疑問を声にした。
道が、ダートなのだ。この峠は全舗装だったはずだ。枝道に入るわけはない。
自然にペースダウンした三郎は、辺りを見まわした。
鬱蒼とした林。雑木が生い茂り、それ自体トンネルのようである。
薄暗いのは、それだけではない。何時の間にか夕暮れも迫っている。
道は悪くない。さっきまでの痛んだアスファルトよりは、よほどマシである。
これは、林道なのか。それとも、農道だろうか。不可解だった。
低速の野太い排気音を響かせながら、しばらく三郎は進んだ。
排気音以外の音は聞こえない。もっとも、それは運転している三郎には当たり前だ。
「おっ?」
ゆるい左カーブを出ると、路面が光っていた。
「む、水溜りか・・・。」
周りの木々を写して、銀色のまるで鏡のようだ。濁ってはいない。
路面はその先まで続いている。さして深いことはなさそうだ。
このバイクなら、何ということはない。
三郎は、そのまま突っ切ることにした。そのまま進む、、、と。
(うっ!あ、、)
声を出す間もなかった。
前輪に地面の手応えが失せるのと、フルフェイスのシールドに水面が迫るのが一瞬だった。
三郎のバイク。三郎が走っているのを見ているものが、もし居たとしたら。
彼と彼のバイクが。スッと落ち込むように、その「水溜り?」に消えるのを見たはずだ。
それにしても。
水しぶきが上がるどころか、水面には波紋もない。
濁りひとつない。さっきまでと変らず、木々を写した鏡のような水面のままである。
物音ひとつ、しない。
三郎のバイクの排気音も、消えてしまっていた。
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(第三話)
「うむ・・・で出おった、か。御婆の言葉どおりだが、まさか本当に現れるとは・・・。」
三郎は、無意識に腰を据え、身構えている自分に気付いた。
一瞬、たじろいだものの。すぐに冷静に、その場の状況を推し量っていた。
昼の、今日の昼に御婆の告げた言葉が、脳裏を駆け巡っている。
「今夜、裏山の泉に願掛けせよ。現れたるものが、その方を助けるであろう・・・。」
祠から出た御婆は、三郎にそう告げたのだ。
三郎の身辺に、このところ不吉な出来事が起こっていた。
三郎自身にではない。身の周りにである。
己の身に降りかかる災厄であれば、恐れる三郎ではない。不敵である。
が、彼の守るべき者達はそれでは済まされない。おびえていた。
それで、御婆に頼んだ。
その御婆の言葉である。三郎は願掛けに出た。
切迫していた。さらに大きな災いの予感が、三郎にはあったのだ。
流行り病だろうか、身内の年寄りが続けて世を去った。
歳を取ったものが死んで逝くのは避けられない。不思議はないのだ。
ところが、その弔いも終わらぬうちに、妻子が熱を発して寝付いた。
これは、ただ事ではない。
このまま放置すれば死ぬのではないか。
現に、年寄りは薬師の手当ての甲斐もなく、あっさりと亡くなっていた。
子を亡くす事は、一族の大事だ。ほおっては置けない。
御婆に頼った。
三郎には、それしか成すすべがなかったのだ。
三郎は御婆の言葉を反芻していた。泉に何が現れると言うのだ。
行くしかあるまい。御婆の言葉だ。何かあるに違いない。
奥では、妻と長子が床を並べていた。
二人とも意識はあるが、熱が出始めていた。
薬師が、添っていた。
熊のような体格の、およそ薬師にはふさわしくない体躯の男だ。
その薬師の顔色が、やはり体躯にふさわしくなく蒼ざめていた。
三郎が部屋を伺うのに気づいて立ち上がり、三郎に歩み寄る。
問いかけようとする三郎を制して、隣の間に入り小声で告げた。
「今はまだ、何とも分かりかねまする。熱、が高くなるようですと・・・。」
「まだ、お若い。気の持ちようも御座います。」
「うむ、・・・お主。年寄り共の時も、同じことを言いおったではないか。」
薬師にも、自信はないのだ。手は尽くしている。
「お、お薬湯は、差し上げております。今はそれしか・・・。」
「う、ううむぅ・・・。」
三郎は憤りで眼を血走らせ、歯ぎしりした。
薬師を蹴り倒したい衝動を、辛うじて押さえている。
御婆に話した後でなければ、ここまで落ち着いてはいなかったかも知れない。
三郎は、日が暮れ、辺りが闇に包まれるのを待って屋形を出た。
屋形から泉までは遠くない。暗闇を進むのに時がかかるだけだ。
泉は、この辺りかと思われる辺りで迷った。闇のせいだ。
物音ひとつしない。風も、今夜はそよともなかった。
気味が悪いほどの静寂の中。音は、かすかな三郎の足音だけだ。
だが、三郎は落ち着いていた。そう遠くでは、ない。
いつもは己の庭のような場所だ。
そうだ、この先を少し下ったところが泉だ。
三郎は歩みを速めた。泉の手前の平地に出る。とたん。
「うっ!?」
一瞬。三郎は後ずさった。
目の前が真っ白になり、同時に例えようのない圧力を感じたのだ。
「う・・・。」
だが三郎は、その圧力から目をそらさなかった。
どろん、どろぉん、どろっどろ・・・・・。
「むぉ!」
思わず差し出した三郎の左手の指を縫って、光が目を刺した。
(くっ。こ、これは稲妻か。)
どろっどろっ、どろぉっ・・・・。
(うう、雷鳴、か・・・。)
わずか前までの静寂と漆黒の闇を裂いて、閃光と地鳴りが三郎を襲っていた。
「うむ・・・で出おった、か。御婆・・・・。」
これは、雷神か。現れるのは雷神だったのか。
だが、まだ願を掛けておらぬ、ぞ。泉の辺りであるのは間違いない、が。
それに、これは。今までに見も聞きもしたことが・・・ない。
(むぅ、馬か・・・。)
ようやく、視力を取り戻し始めた三郎の目に「、雷神」の輪郭が映った。
どろっ、どぉろっ、どっどろっ・・・・。
光と音は同じところから発していた。
馬にうち跨った雷神。
三郎は、そう思うよりなかった。
そうでなければ、何奴。
三郎は無意識に腰を落とし、身構えた。
どうしようというのではない。
これからどうする。どうなるというのだ・・・。
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(第四話)
「・・・あれ?」
クラッチを握ったまま、停止してるのに三郎は気がついた。
快調なアイドリングの鼓動が、何事もなかったように響いている。
さっきの水溜りは、そうだ水溜りにハマったはずだ。
咄嗟で、なにもしようがなかった、が。コレはどうしたことだ。
一瞬眼前に迫った水面が、まだ目に焼き付いている。
避けようはなかった。そのまま水没したのでは、なかったのか。
左足をついて、そのまま立っている。地面は平ら、である。
三郎は無意識にスロットルを煽った。素直に追従する、何の変哲も、ない。
それも無意識だが、ミッションを1速に踏み込みニュートラルを出す。
首を傾げながら・・・。
(うっ!)
三郎は、ギョッとした。ヘルメットがなければ髪が逆立ったはずだ。
ライトに、前方にヒトを見た。
ただそれだけでは、驚くにはあたらない。
突然現れたからか、そうかも知れない。が、驚きは疑問に変った。
何か、不自然である。奇妙な風体の男だ。
こちらを覗っているのか・・・身構えている。
この場で、三郎とその男を見ている者が、もし居たとしたら。
奇妙な風体をしているのは三郎の方だった。ということに、三郎は気づいていない。
間違いなく、奇妙なのは三郎の方なのだ。三郎も、今はまだ気がつかないだけである。
そのまま、睨めっこをしていても仕方がない。もっとも、十数秒間のことだったが。
それに、ヘッドライトが眩しいだろうし、排気音で話も難しい。
三郎は、ためらわずにイグニッションを切った。
しまった、真っ暗闇だ。慌ててイグニッションを戻す。
ライトは点いたが、エンジンは止まっている。物音一つしない。
ライトが、再び男を照らし出していた。
三郎はタンクバックのファスナーを開け、マグライトを取り出した。
備えが、もう役に立った。置かれた状況も忘れて、三郎はニヤついていた。
バイクのスタンドを下げ、荷物を避けながら足を抜き、三郎はバイクを降りた。
「あのー、すいません・・・。」
不審に思いながらも、三郎は男に声を掛けた。
そういうところは図太い、というより三郎はお気楽なのだ。軽く考えている。
声を掛けると同時に、マグライトを捻り点灯した。
足元を照らしながら数歩、前に出た。
男は相変わらず身構えている。
(あ、そうか。)
三郎は、気がついてヘルメットのシールドを上げた。
それにバトルスーツを着ている。一般のヒトには、かなりの威圧感があるはずだ。
相手が逃げ出しても不思議のない状況でもあるのと思ったのだ。
「いやぁ、どうも道に迷っちゃった、ようで・・・・。」
出来るだけ気さくに、三郎は話掛けた。
話ながら、男の様子を確かめてもいた。
と、男は逆に数歩後ずさると、身体を起こし頭を下げた。
目線はそらしていない。鋭い目付き、気配だけだ。暗いから見えているわけではない。
つられて、三郎も頭を下げた。お辞儀だろう。そう思った。
丁寧にお辞儀するくらいだから悪意はないようだ。ああ、良かった。
「あの・・・、うぅ?」
三郎は言葉を飲んだ。男が、何やら語り始めたからだ。
(あぁ?なんだって?)
小声であるが、妙に通る音声だ。が、意味が取れない。
方言か、というより何か呪文か、神主の祝詞のような響きだ。いったい何だ。
呆然とする三郎に向かって、男はひとしきりその祝詞を続けた。
さすがに、三郎も呆れてきた。黙っていたら何時まで続くか分からない。
「あぁ、すみません!」
結局、三郎の口から出たのはそれだけだった、が。
男はピタリと祝詞を止め、三郎を見つめた。再び口を開ける。
(うん?やはり方言だな、まるで分からない。参ったなぁ。)
困惑している三郎に、気づいたのかどうか。男は、身体をハスに構えた。
(お、なんだ。分かっているのか。案内してくれるのか。)
どうやら男は「こちらに、どうぞ」というような仕草である。
まぁ意味不明の方言自体には不思議はない。きっと、よくある事だ。
悪意は感じないし、どうやら案内はしてくれるような雰囲気になってきた。
このままここで夜明けを待つのも、三郎は不安だった。
不安というより、面倒だったのが正直な気持ちだ。
三郎は、とりあえずもう一度「お辞儀」をすると、バイクに跨った。
まさか山道を押していくわけにもいかない。低速で行くしか方法はなさそうだ。
イグニッションを捻る。ライトに男が浮かび上がった。もう、身構えてはいない。
セルボタンを押す。野太い響きを上げて始動する。
回転を安定させる為に、三郎はスロットルを煽った。
ひときわ高い排気音が辺りにこだました。
男が目を剥くのが分かった。やはり少し脅かしてしまったていたようだ。
男が、数歩下がると、そのまま歩き出した。三郎はギヤを入れ後を追う。
速い。最初は歩いているようだったが、やがて男は疾走っていた。
もちろんバイクでついているのだから、置いて行かれるようなことはない。
三郎は安心した。あんまり低速で走るのも、気持ちのいいものではないからだ。
いくらも走らずに、道は平地に出た。同時に林からも出ていた。
(里か、周りは田んぼのようだが・・・)
そう思う間もなく、明かりが見えた。人家のようである。意外と山奥ではないようだ。
やがて、道の正面に、男が停まり振り返ったところ、で。
(これは・・・凄い、家というより屋敷だ。凄い門構え、じゃないか。)
三郎は驚きを隠せないまま、やがて開いた門をくぐった。
さすがに、門をくぐると三郎はエンジンを切った。屋敷の内側は静まり返っている。
三郎は次第に、大それた所に自分が居るような気がし始めていた。
三郎が気後れするほど、凄いのは門だけではない様子だったからだ。
「おっ。」
我に返った三郎はヘルメットを脱いだ。そのまま小脇に抱える。
手前にいた男と目が合う。しばらく沈黙が続いた。
男は、何か言いたげであったが、無言のまま奥を指し示した。
屋敷の中へ案内するようである。
簡単に外せるタンクバックを手に提げ、三郎は男に続いた。
(むぅ、野宿よりはいいが、なにやら堅苦しいかもしれない。失敗したかな。)
玄関らしき縁を上がり、板敷きの間に通された。照明は燭台のようだ。
正座は苦手だから、あぐらをかいて座った。
男は、三郎の前に座り頭を下げると、立ち上がり部屋を出ていった。
10畳ほどの広間の真中にポツンと、取り残された形だ。
なんとも居心地が悪い。というより不安だ。
(まぁ、取って食われるようなことは、ないだろう。ははは。)
とりあえず待つしかないようだ。三郎は腹をくくった。
屋敷の中へ通されたのだ。たぶん、泊めて貰えるだろう。きっとそうだ。
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(第五話)
「ぅうむぅ〜。」
三郎は後ろ手に板戸を閉じると、部屋内を覗いながら唸った。
しばらくし、向き直ると離れへと急いだ。御婆の居る離れへである。
離れといっても縁続きで行けるのだ。しだいに駈け始めていた。
「御婆、入るぞ。」
返事を待たずに三郎は戸を開け、部屋内に入っていた。
人の気配が、しない、が。
女が一人、祭壇のようなものに向かって座っていた。背を向けている。
小柄だ。三郎が入った事など、無視しているように見える。
「どう、しました?」
声が、若い。澄んだ柔らかい声だ。振り向かずに三郎に問いかけた。
「う、お御婆の言ったとおりだ。現れおったわ。」
「・・・・。」
「それで、憑いてきおった。いっ、いま母屋におる。」
「じゃが、不思議だ。願は、まだ掛けてなかったが、泉の手前に出おったわ。」
相変わらず、御婆は背を向けたままだ。微動だにしない。
「光が。日の光、そう夜明けの日が射すのに似た光。それに雷鳴が・・・」
「あれは、雷神。そうだ、雷神か雷神の使いに違いない。」
「妙な兜と鎧を着けて、手先からも光を放っていた。」
「馬のようで、足がない。牛車の輪のような、、、それに乗って駈ける。」
「何か、声を出したが、、、う、取って食われるようなことはないと、思うただけじゃ。」
三郎は、落ち着いているようで動転している己に、初めて気づいた。
上手く、説明できない。舌が、もつれていた。無理もないが。
真意は、どうしようもないから御婆の所に来たのだ。
「私が、会いましょう。どのようなモノか・・・。」
三郎の心中を見抜いたように、御婆はそう言うと立ち上がった。
同時に立ちあがった三郎が、戸を開く。御婆が先に部屋を出た。
御婆が、滑るように歩を進める。縁を母屋に向かって行く。
三郎は落ち着かぬ風情で後を追った。
(これで良い。わしには良く分からんが、御婆なら大事あるまい。)
歩きながら三郎は、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
それと同時に、急に恥ずかしくなり赤面した。
三郎は、いつにもこれ程、動転したことはなかった。家人には見せられない有様だ。
虚勢を張っているつもりはなかったが、実際には逃げ出さないのがやっとだった。
御婆のところへ逃げ帰った。それが正直なところだ。
本当は、御婆に相談するときは、いつも行き詰まったときなのだ。
祖父の代から、この家ではそうしてきた。
だが、それに気がついたのは三郎が総領になってからだ。
良いにつけ悪しきにつけ、御婆に相談して決める。
それで万事上手く治まるのである。絶対的な信頼だ。
御婆なしでは、この家は成り立たないのだ。
それにしても、三郎は慌てていた。今だから冷静に考えているが。
あれは、雷神。雷神様か。
馬?に乗って現れた。後光が、いや光は前から発していたようだ。
身の丈六尺、黒色脅しの鎧に似た装束。それに、奇妙な兜だった。
兜を脱いだ面相は、ヒトのものだった。
顔色は、赤くも青くもなかった。
あれは、いったい・・・・。
御婆の小ぢんまりした後姿に隠れるように歩む自分に、三郎は気付かなかった。
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(第六話)
三郎は、屋敷に入り部屋へ通されたものの、それきり何の音沙汰もなかった。
しばらく広間の様子を見まわしていたが、それも飽きてしまった。
誰もいるわけではないから行儀良くしている必要もない。と、三郎は思った。
あぐらを崩して左膝をかかえて、三郎は考え込んだ。
あの男、今時あんな恰好で生活しているヒトがいるものなのか。
最初は、時代劇のロケでもやっているのかと思ったくらいだ。
まぁ、世の中最近イロイロだから、そういう人種も不思議はないが。
それに、この屋敷。そうか、たぶん相当な金持ちに違いない。
変わり者の成金か何かか、いずれにしても変わり者なんだ。きっとそうだ。
旅に出たばかりで、早速トラブルかと心配したが杞憂だった。
事故ではなかったし、野宿もしないで済みそうだ。
ちょいと道に迷っただけだ。なんで迷ったのか、不可解ではあったが。
三郎は、ワケの解らない部分のことは、考えるのは止めた。
無論、気にはなっていたが、それより、これからどうするかだ。
たぶん方言だろうが、男の言葉がまるで理解出来なかった。
こちらの言っていることは通じたのか。
「標準語」は、通じたはずだ。現に道案内してくれたのだ。
外国ではないんだから、その点はなんとかなるだろう。
「おっ。」
先程男が出ていった戸が、静かに開いた。誰か、来たようだ。
三郎は、慌てて抱えていた膝を離し、座りなおした、と。
そのまま、三郎の視線は入ってきた人物に釘付けになった。
目の前を通り過ぎ、右側に進むその人物から、三郎は目を離せなかった。
三郎は薄暗かった部屋が、一瞬明るくなったように感じていた。
(こ、これはどうだ・・・・。)
そのまま、その人物は三郎の右手に座った。
(・・・綺麗だ・・・なんて、美しい、このヒトは・・・。)
抜けるように白い肌、細面にとおった鼻筋。
切れ長な大きな瞳、大きいはずだ。
その瞳を、伏せている。半眼、眼をとじてはいない。
薄く紅をさした小さな唇。細腰の辺りまで伸びた黒髪。
小柄だが、均整のとれたスラリとした姿態だ。流れるような歩み、だった。
巫女のような装束をしていた。そう、巫女だ。三郎は勝手に決めつけていた。
巫女は無表情のようでいて、不思議と冷淡さは感じられない。
三郎に、意識を注いでいるのか、心なし微笑を浮かべているようだ。
容姿は素晴らしい。が、それ以上に三郎が引きつけられる何かを
巫女は内に秘めていた。
「ぁあ。」
三郎の正面に、先程の男が座り頭を下げたところで
ようやく三郎は我に返った。それほど三郎は巫女に気を奪われていたのだ。
「う、どうも・・・。」
ひょこんと、三郎もお辞儀した。座って礼したことなど、めったにない。
沈黙が、続いた。
巫女は、しばらく三郎を覗っているようだったが、男に顔を向け微かに頷いた。
男は眉根を寄せ、視線は巫女と三郎を交互に動いた。
不思議な間を置いて、男は。
「うむっ。」
ひとりで納得したように、視線を三郎に向けた。
(私は、御婆。御婆と呼んでください。・・・お名は、名はなんとおっしゃる。)
「うっ、えっ?えぇ?」
三郎は眼を剥いた。突然、声がした。いや、声がしなかったからだ。
巫女が、こんどは確かに微笑んでいた。脇に、眼の前に座ったままだ。
間違いない。口を、口を開いていなかった。
立っていたら、三郎は腰を抜かしたはずだ。絶句している。
「あ、あわぁわ・・・。」
「ほほほ、これは。雷神様ともあろうお方が。驚かれたか。ほほ・・。」
巫女は、相変わらず微笑んでいるだけだ。声だけが、三郎にはキコエる。
「ふふふ、思念です。貴方の意識に直接話しかけているのです。」
「安心して・・・思えばいいのです。声に出しても同じこと、私には分かります。」
「貴方とは、話せます。思念にも相性があるのです。」
「ふふ、貴方は私に興味を持たれた。それだけで十分です。」
「さぁ、落ち着いて、気を楽にするのです。そう、力を抜いて。」
「ほほほ、取って食うなどと。面白い、御屋形様と同じことをおっしゃる。ほほほ・・。」
なんということだ。巫女は三郎に話しかけているのだ。声を使わずに。
それに、三郎の思ったことを見透かしている。いや、正確に把握している。
「うぅ、シネン、らいじん。なんのことだ。分からないが、、、話せるのは、分かった。」
三郎は、普通に喋った。思えなどと言われても、ピンとこない。
「分かっています。こんな常態の方が、雷神であるはずはない。」
「それに雷神など、この世にはありません。」
「・・・三郎、佐々木三郎といいます。」
三郎は、ようやく名乗った。声に出したのか、口をパクパクしただけなのか。
「・・・これは・・・面白い。貴方の名は三郎、サブロウですか。」
巫女は、微かに表情を変えると正面の男に眼を向けた。
正面の男。そうか、御屋形様と言っていた。この屋敷の主なのか。
「そう、御屋形様です。山縣三郎様。三郎様とおっしゃる。」
「はぁ?・・・同名。同じ名・・・。」
「そのようです。何かの縁でしょう。ほほ、不思議なもの・・・。」
三郎は、ほとんど条件反射的に胸元を探った。
「これを・・・。」
巫女に差し出した。運転免許証だ。
「書付け、免状ですか。・・・人相まで・・・。」
チラと目を通しただけで、巫女は三郎に免許証を渡した。
三郎は、上下左右、裏表に眺めていたが、文字は、氏名は見留めたようだ。
巫女を介して、サブロウにそれを戻した。
「それは・・・三郎様。後になさいませ。それより急ぐことがございます。」
巫女は、その場を立とうとした三郎を引きとめた。何だというのか。
「ふふふ、サブロウ様。系図、家系図をお見せしようとされたのです。ほほほ。」
三郎は、少し不満そうにその場に座りなおした。サブロウを見つめる。
「サブロウ様。大分落ち着かれた様子。」
巫女は、説明を続けた。
「サブロウ様。眼に見えずとも有るものは、そこに有ります。香や音は
見えませんが、確かにソコに有ります。思念も私達の中に、ソコにあるのです。」
「そう、納得されましたね。」
「言葉で話すことも、いずれ出来ましょう。今は急ぎます。」
「さあ、三郎様。もういいでしょう、大丈夫です。お話ください。」
巫女は、三郎は、何か急ぎの話しがあると言う。
いったいなんだ。
サブロウは、分かったようで益々分からなくなっていた。
思念で会話するのだという、確かに今現在話している。口は開いていないのに、だ。
それはいい。分からなくても体験している。
では、話とはなんだ。
三郎と、巫女、御婆というらしいが・・・。
このヒトタチはいったい何なんだ。サブロウは、いよいよ分からなくなってきた。
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(第七話)
「サブロウ殿、はは、自分を呼ぶようで、何か可笑しなものだが・・・」
三郎が「話し」始めた。勿論、思念でだ。
掻い摘んで言うと、三郎の妻子が流行り病で寝込んでいる。
まだ意識はあるが、頭痛、発熱を訴え、このままで危ないかも知れない。
近頃、同じ病でなくなる者が相次いでいる。これは由々しきことである。
御婆の予言で、泉に現れるものが救いの主となる。ということだ。
無論、この際、現れたのはサブロウで、サブロウに救いを求めているのだ。
「う、し、しかし。三郎さん、俺は医者ではない、ぞ。」
サブロウは困惑した。助けてくれと頼まれても、自分にできることがない。
病院に運ぶといっても、バイクでは難しい。病人とタンデムするのは無理だ。
「出来る事はして上げたいが、俺に、なにができるか・・・。」
いきなり深刻なことになった。そうか、そういうことか。
「サブロウ様。とりあえず、お会い下さい。」
話しが途切れたところへ、御婆が述べた。
「雷神様が現れたというだけで、病人には救いになります。」
「うぅ、雷神。またその話しか・・・。」
と、その言葉を聞いて、三郎はその場で立ち上がって叫んだ。
「そうじゃ、それでいい。病魔退散じゃ!」
「あ、サブロウ殿、あの馬で、アレで庭先から奥へ回ってくだされ!」
三郎は必死だった。
妙なことになった。理屈もへったくれもない。
病魔退散だと言った。サブロウが、雷神が、お払いかご祈祷でもするということか。
なんと雷神はサブロウである。なんだか狐につままれたような話しではないか。
サブロウは、TV番組あたりの作製にハメられているのではないかと思った。
それにしては、二人共真に迫っている。「思念」の件も説明できない。
バイクで走るだけなら、出来ないことはないが・・・。
三郎はそのまま、戸口へ向かい戸を開け放った。
御婆に促されて、サブロウも立つ。もう、やるしかなさそうだ。
入り口でブーツを履き、三郎の後ろから門に向かった。
「おや?」
いつの間に点けたのか、かがり火が焚かれている。門の周りは明るい。
サブロウのバイクの脇に男が二人立っていた。それだけでは、大して不思議もない。
疑問符は、その二人の風体に対して付いている。
二人がそれぞれ手にしているのは、どう見ても槍である。
二人とも随分小柄だ。御婆ほどではないにしろ、子供のようだ。が、顔は大人だ。
三郎達が近づくと、一歩下がって姿勢を正した。なんだろう。
「サブロウ殿。では、お願い申す。あとをついて来てくだされ。」
疑問を晴らす暇もなく、三郎が言うので、サブロウはヘルメットを被った。
跨って、イグニッションを捻る。ヘッドライトが点灯した。
セルボタンを押す。
エンジンはまだ温まっていたから、轟音とともに火が入った。
アイドリングが落ち着くまで、サブロウはスロットルを煽った。
辺りの静寂を裂いて、排気音がこだまする。
ライトがつきエンジンがかかると、例の槍の二人が悲鳴を上げて逃げ去るのに
サブロウは気が付かなかった。
サブロウは、三郎が歩くあとを追う。先程と同じに、三郎は次第に走り出していた。
庭伝いに、縁を回る。広い。やはり大きな屋敷だ。
そこがそうなのか、三郎が立ち止まった。
縁に上がり、戸を開く三郎に、縁に直角になるようにサブロウは回りこんだ。
そのまま、ライトを向けるとハイビームを点滅した。パッシングだ。
気が違ったようにスロットルを煽る。壮絶な排気音が巻き起こった。
なにしろ雷神。カミナリ様の役である。半端ではいけない。
ついでにホーンを断続的にならす。
少ししつこいくらい、サブロウはそれを繰り返した。
もうヤケクソだったが、この位やれば厄払いくらいにはなっただろう。
イグニッションを切った。ウソのような静寂さだ。
キィーン、と。サブロウには耳鳴りが残っている。
「まるで、暴走族だな。あぁ、カミナリ族か、古いな。」サブロウは呟いた。
バイクを降りると、サブロウは縁に上がった。癖なのかタンクバックを抱えている。
申し訳無いが土足だ。ブーツを脱いでは格好がつかない。
「むぅ・・・。」
三郎の妻子だろうか。大人と子供の夜具が二つ並んでいた。
奥方、伏している女と目が合った。女は眼を見開いている。
もっとも、サブロウはまだシールドを上げていないから。目は見えないかも知れない。
気が付くと縁に御婆も立っていた。涼しげな表情で。
夜具の横に、男が座っていた。腰を抜かしているのか、後ろに手を突いている。
「薬師の芹齋(きんさい)様です。」御婆が説明した。
「くす、し?・・・・。くすり、病気には薬師か。ああ医者か、、うっ待てよ・・・。」
なんだか変だ。医者ではないのか。
ここは、医者もいないような山奥なのか、妙だ。
それでも、薬といって、サブロウは気が付いた。
そうだ。薬ならある。また増えた疑問は、薬のことで何処かへ失せてしまった。
旅に出るのだからと、下痢止め、胃腸薬。頭痛薬、感冒薬。それに応急セット。
サブロウは一通り、多すぎる位に持ってきたのを思い出した。
病気が何なのかは分からない。だが、発熱や頭痛になら効くかもしれない。
「御婆、具合は。どこがどう悪いんだ!」サブロウは声に出した。
「最初は高熱と頭痛です。風邪のようですが。食べられなくなると死んでいきます。」
「う、・・・インフルエンザか何かか、俺に判るわけはない・・・。」
サブロウは、考えた。熱と頭痛か、頭痛薬か感冒薬ならどうだ。
衰弱すると死ぬらしい。症状を軽くすることは出来そうだが。
雷神様のフリくらいはいくらでもするが、病気そのものは・・・。
サブロウのヘルメットのシールドが曇り出した。頭を、抱えたくなっていた。
しばらく、無言のままサブロウは考えていたが。
タンクバックを足元に置くと、ファスナーを開け中をかき回した。
取り出したネットの中から、感冒薬を取り出した。大瓶だ。
サブロウは腹をくくった。最悪は死んでしまうかも知れないのだ。ほおっては置けない。
感冒薬なら副作用は少ないはずだ。素人考えでも、この際仕方ない。
インフルエンザなら、間違いなく効果があるはずだ。
適量を、子供は五、六歳か。錠剤を手に取り、枕元に近づいた。
「ひぃえ〜っ!」
腰を抜かしていた薬師芹齋が、我に帰って悲鳴を上げた。
サブロウが近寄ったので、我慢できなくなったようだ。
四つんばいになって、部屋の奥へ逃げようとするが、動けない。
「御婆。このオジサンに手伝ってもらわないと困る。説明してくれ。」
御婆が何か伝えたのか、それは分からなかったが。
芹齋はしばらく、ジタバタしていたが、次第に落ち着いて大人しくなった。
「これを、飲ませてくれ。子供はこれだ。」
まだいくらか震えている芹齋の手に、錠剤を渡した。
椀に水を汲み、それぞれに飲ませた。素直に飲んだようだ。
サブロウは、ほっとすると同時に不安を覚えた。
これで、良かったのか。
何か間違っているのではないか。
取り返しのつかないことになっても不思議はない。
閉めっぱなしのシールドに息苦しさを憶えて、サブロウはシールドを上げた。
左に三郎が居た。目が合う。
サブロウは三郎の目に、自分より大きい不安の色を見て、目を伏せた。
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(第八話)
「ふぅ〜。」
サブロウはため息をついた。手には箸と椀を持ったままだ。
とりあえず飯が出た。湯づけ、お湯をかけた飯である。味噌が付いていた。
腹が減っていたから、美味いはずだが、味がしなかった。
三郎の妻子のことが気がかりなのだ。
妻子に感冒薬を飲ませ、とりあえずは引き上げた。
それ以上そこにいても、なんの手当ても出来るサブロウではなかったからだ。
バイクは空いている馬屋に停めた。
客間らしいこの部屋に通された。バイクに積んであった荷物は部屋にある。
小綺麗な部屋だが板敷きだ。照明は燭台である。
暗いようだが、眼が慣れると結構明るい。
その明かりの中に、御婆の白い顔が浮かんでいた。
サブロウが飯を食べる間も、横に座っていた。目が合うと例の微笑が返るだけだ。
居るのか居ないのか分からない、不思議な雰囲気の女だ。
近くに居ても悪い気はしない。サブロウ好みの容姿でもあった。
「あのさ、ところで。どうして御婆なんて呼ばれているんだ。そんなに若いのに。」
サブロウの疑問のひとつだ。もう、今日は一日中疑問だらけなのだが。
一番解らない人物に、疑問を投げかけている状況もまた不思議だ。
疑問を感じながらも、それなりにコトが運んでいってしまうのは、もっと不思議だった。
が、とりあえずは御婆に聞くしかない。今は御婆しか頼る者はいないのだ。
「ふふふ、そうですね。でも、私は三郎様の三代前より、この家におります。」
「それで、三郎様のお父上からみても、私は御婆です。」
「えぇ〜っ。三代。」
三代といったら、どう考えても100年近くはありそうだ。
三郎も30歳前後に見える。
御婆は、どうみても20歳前後である。そんな馬鹿な。
「ほほほ、本当のことです。だから御婆でいいではありませんか。」
「んぁ。もういい、で。三郎様もそうだが、あの槍を持った連中はなんだい。」
「槍。ああ、あれは三郎様の郎党です。家の者、兵でもあります。」
「ろうとう?へい?何それ、それは・・・。」
「三郎様はこの辺りを仕切っている御屋形様。兵も六百ほどは集まります。」
「へっ?・・・御婆、なんだかよく分からない。なんだって。」
どうも話しが変だ。かみ合わない、サブロウはいよいよ困惑した。
いくら田舎で山奥でも、そんなモノがあるものか。
不信気な表情のサブロウを見つめていたお婆は、逆に尋ねた。
「サブロウ様、貴方はどこから来られた。泉で三郎様に会う前は、どこから。」
「え、あ、あぁ。御坂峠、旧道のトンネルを抜けて、でそのあと、あ・・・。」
「・・・そのあと、どうしました。」
「道に迷って、林道で水溜り、水溜りにハマッて、ハマッたと思ったんだけど。」
「それから?」
「それからって、あ・・御婆。」
サブロウは、いつの間にか普通に会話している自分達に気が付いた。
「ほほほ、もう貴方の言葉は理解しました。アノ方法は、貴方には重い、疲れるでしょう。」
御婆はサブロウと同じ言葉で話している。方言はどうなったのだ。
益々サブロウは、いよいよ混乱した。気が変にならないのが不思議だ。
「おやおや。大丈夫、貴方は自分で思っているよりずっと強い。私には判ります。」
「水溜りにはまって、その後三郎様に会ったのですね。」
「・・・うん、そういうことになる。」
「・・・・。」
「そう、それではたぶん。貴方は私と同じ、ある意味では同じです。」
「はぁ?また、分からないことを言うなよ。何が同じなんだ。」
サブロウは、さすがにイラついた。いったいなんだって。
さらに、次の御婆の言葉は、まるで意外な言葉だった。
「この世の者ではない、のです。」
「こっ?」
「貴方、それに私は、この世の中に生きている者達とは、違います。」
「生きていることは同じでも、生きる世が違う。あなたは迷い込んだのです。」
「私の見た貴方の時は、この世ではまだ生まれていない。つまり、この先の
世が貴方の住む世の中ということです。」
「今はそれしか分かりません。でも、確かに貴方はこの世の者ではない。」
「貴方の言う水溜りを通して、この世に入りこんだのです。」
「それに、貴方は今、少し酔っています。酒にではありません。でも、かなり意識が
ふらついているはずです。物事の見極め。そう、判断が出来ない状態です。」
「貴方は強い。自己の意識を守るために、自分から酔った状態になったのです。
変化の刺激が強すぎるのを感じて、意識の感度を落としたのです。」
「大丈夫、次第にこの世に慣れます。酔いも覚めます。」
言葉としての意味は、サブロウは理解した。
サブロウもSF小説は嫌いではない。よく読んだ。
どこか異次元や、過去や未来の世界に飛ぶ話が多い。それは小説だろう。
これは夢だ。きっとそうだ。
どこかで、寝込んだに違いない。
いや、バイクに乗っていたのだから、転んで気絶したのかも知れない。
悪い冗談だ。こんなことが、あるわけはない。
サブロウは、お決まりのように頬をツネってみた。
痛かった。
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(第九話)
サブロウは疾走っていた。林の中の一本道だ。
かなり飛ばしている。軽快なエクゾーストノートが尾を引いている。
これなら気持ちがいいはずだが、なぜか気分は重い。
鉛色の雲が、サブロウの気持ちに映っているのか、どこか息苦しい。
やがて林が切れた。山間の草原だ。道は途切れたが、草原を突っ切って進む。
「うん?」
ふと、気がつくと。いつの間にかサブロウは一人ではなかった。
左右にも、背後、ミラーにも見える。
これは、奴らはなんだ。
バイクではない。馬に乗っている。
おぉ、騎馬武者だ。極彩色の甲冑、漆黒、真紅の甲冑。旗指物の放列だ。
サブロウの左右の武者は幌をつけてる。風をはらんで大きく膨らんでいる。
何だ、おれは何で奴らと走っている。ここは、俺はどこへ向かっているんだ。
サブロウは見まわした顔を正面に戻した。
「おっ?」
正面に、草原に点々と、何か現れた。いったい、何だ。
点は、やがて姿を表した。あっという間に眼前に迫る。
竹垣、後ろには立つのは旗や幟だ。
その竹垣の辺りから、ザアッと何かが沸いた。これは?
「うわっ!」
次の瞬間。バラバラと降りそそぐ、それを見てサブロウは叫んだ。
矢だ。俺達に射掛けている。いったいなんだ。なんで撃たれるんだ。
「あっ!」
サブロウの左を走る騎馬武者が矢を受け、落馬していった。
空の馬が脇へ流れて行く。
「なんだ、なんだ。おい止めろ。停めてくれ、うぁ〜あ!」
一団となって進む騎馬武者は、むしろ速度を上げていく。
サブロウの意思に反して、エンジンは全開の悲鳴を振り絞った。
次の竹垣が迫る。
サブロウは目を剥いた。竹垣に横一列の兵が取り付いている。
「うっ、鉄砲!」
サブロウが叫んだ瞬間。竹垣の手前にパラパラと白煙が吐き出された。
刹那、サブロウの身体に衝撃が走った。
「うぁ!あぁーっ。」
「サブロウ様。サブロウ様っ。」
「むっ、あぁ・・・。」
御婆の端正な顔が、サブロウの眼前にあった。
心配そうにサブロウを伺っている。
「うぅ、・・・ゆ、夢か。夢だ、寝ていたのか俺は・・・。」
食事の後、御婆と話していて、座ったままサブロウは居眠りをしたようだ。
「寝入られたようでしたが、そのままにしていました。疲れたんでしょう。」
「あ、あぁそうか。すまない。いつの間に。」
「謝ることはありません。でも、もう明け方です。夜明かししてしまいました。」
思考がまとまり始めると、サブロウは昨夜の御婆の言葉を思い返した。
御婆は、サブロウがこの世の者ではないと言った。御婆もそうだと。
サブロウはココに迷い込んだとも言った。
サブロウが「生まれていない。」とは、ココは過去か、つまり昔の世なのか。
水溜りにハマッて、過去の世界に迷い込んだと言うのか。そうなのか。
そうならば、三郎の装束や槍の男達の説明は納得できる。いや、説明がつく。
いやいや、ツジツマがあっているだけだ。常識的な理解の枠をはみ出している。
本当にそんなことが、あるのか・・・。
今しがた、俺が見ていたのは夢だ。俺は最後に鉄砲で撃たれた。
御婆や三郎が夢ならば、夢の中で夢を見たことになる。
「むぅ。」
「どうしました?気分でも悪いのですか。」
「う、あ、あぁ。何でも無い、また少し考えていただけだ。」
止めよう、考えても解らない。サブロウは諦めた。簡単な理屈ではないようだ。
「あ、それより。病人だ。どうなったろう。気にかかっていたんだ。」
三郎の妻子に、薬を与えたのだ。一晩経てば容態に変化があるはずだ。
三郎の不安気な目が、サブロウの頭を過ぎった。
「行こう。」
サブロウはたち上がった。御婆が戸を開け、寝所への縁を進んでいく。
薬は、あれは効果があっただろうか。
サブロウは、もうそのことを思うだけで、他のことは忘れてしまっていた。
御婆が滑るように歩く後を、サブロウは追った。
寝所の手前に差し掛かったとき、寝所の内より男が飛び出してきた。
三郎だ。表情が明るい。御婆の姿を見て駆け寄った。
御婆に向かって何事か、喚きたてている。
御婆がサブロウを振返った。
「サブロウ様。お二人とも熱が下がられた。容態は快方に向いたようです。」
サブロウの与えた薬が効いたのだ。
「薬師は、熱が引けば大丈夫だと言っています。間違いないと思います。」
「うぉ、そうか。そうか良かった。良かった・・・。」
サブロウは、何の確証もなく感冒薬を差し出したことを悔やんでいた。
薬が効かないばかりか、副作用があるかも知れないと気付いたからだった。
急に容態が悪化しはしないかと、気が気ではなかったのだ。
偶然かもしれないが、とにかく病状はよくなったらしい。良かった。
「ん?」
サブロウは寝所の戸口から、頭を半分出している男に気がついた。
薬師の芹齋だ。サブロウと目が合うと慌てて引っ込んだ。
今、サブロウはヘルメットはしていない。が、バトルスーツがそのままだ。
だいぶ脅かしてしまったようだ。
無理もない。それでなくても、ココではサブロウは図抜けた巨漢だ。
それが深夜に大型バイクでフカシまくったのである。
「雷神、さま。か…。」
サブロウは急に照れくさくなって頭を掻いた。下げた目線が御婆と合う。
相変わらず、御婆は謎を含んだ微笑を返すだけだ。
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(第十話)
数日が過ぎた。さすがに、サブロウも動転したが落ち着くのも早かった。
御婆の言うとおり、サブロウは「強い。」ということのようだ。
サブロウの時計は、あらぬ時刻を差していたので、サブロウは適当にお昼を12時に合わせた。
日付もあるが、気にしないことにした。調べるだけ煩わしい。
とりあえずヘルメットを仕舞い、バトルスーツも脱いでジーンズとジャケットに着替えた。
それだけの事で一応は人並みらしく、サブロウを見ても誰も逃げ出さなくなった。
それでも、サブロウが近寄ると皆んな一様に目を剥く、やはりデカイのだ。
サブロウから見たら、まわりは小学生のような背丈の者ばかりだ。
それでいて皆一様に顔は大人であるから、なんとも滑稽で仕方ない。
御婆の話しから推測するしかないが、どうやらだいぶ昔に迷い込んだようだ。
身振り手振りで会話するだけだから、正確な時代なんかは判らない。
たぶん半世紀は前だ、まぁ日本であることは間違いないように思う。
それに、たまたま三郎と出会ったのは本当に幸運だったようだ。
御屋形様の客分ということで、驚くほど待遇も良い。
三郎の奥方達の病気を治したことにもなったから、なおさらだ。
奥には、三郎以外の男は自由に出入りできないから、あれきりサブロウは奥へ行っていない。
御婆の話では、奥方達は順調に回復しているとのことである。
特に何もすることもなく、サブロウは毎日、安全なところで、のんびりと過ごせている。
近くに温泉まで沸いていたから、まるで湯治客のようだ。極楽である。
なにしろ弓矢で戦をしているような時代らしいから、
一歩間違えばどうなっていたか、分かったものではなかったのだ。
今ごろは、首と胴体がサヨウナラしていたかも知れない。
とにかく常識が違うから、驚くことばかりだ。呆れることも多い。
御婆が居るからいいようなものの、全くの逆浦島太郎の状態である。
ある夜、床につこうとしたら、何やら女が部屋に入ってくる。
「夜伽(よとぎ)」に来たという。迂闊にもそのときサブロウは悲鳴をあげてしまった。
幸い、サブロウの部屋から御婆の部屋は近い、聞いてすぐに事情は理解できた。
このときサブロウは御婆が初めて笑うのを見た。
正確にいうと御婆に笑われた。それでその晩、明け方までサブロウは眠れなかった。
その次の晩には、なんと若い男が枕元に座った。
なんと、三郎はサブロウが衆道(男色)だと思ったらしい。これには参った。
ココでは、衆道もそれほど特異なことではないらしいのである。
男が必死で粘るので、結局、御婆を呼ぶことになってしまった。
翌朝サブロウは御婆に話して貰い、丁重にその手の「おもてなし」はお断りした。
別にサブロウとて、男はともかく女嫌いであるわけはないのだ、が。
正直まだ、そこまで余裕はなかった。
夜伽に後腐れなどあるようなことは、ないというものの。
サブロウは、この上面倒なことに、巻き込まれたくなかったのである。
たいして日を置かず、三郎とコミニュケーションを取れるようになった。
思念による会話は、御婆を通じているときしか出来ないようだったのだ。
最初は身振り手振りだったが、次第に言葉だけで意味が分かるようになってきた。
やはり御屋形様だ。一族の総領だけのことはある。他の者とは、まるで切れが違うようだ。
腕力も胆力も図抜けているから、サブロウを怖れることもない。
それどころか好奇心が旺盛で、サブロウの全てに興味を示した。
「ふん、変った甲冑であるな。肝心な腹と胸が柔らかい。いい度胸だ。」
と、いう意味のことを三郎が言った。バトルスーツの感想である。
参った事に、サブロウはよっぽど腕に自信がある質だと思われてしまった。
もっとも、彼らから見れば大入道のサブロウだ。疑問の余地はないのだろう。
無論、バイクにも関心は向いていた。
「さしつかえなければ、この鋼の馬に乗らせて貰えぬか?」
御安いご用だと、サブロウはタンデムで走り回ってやった、が。
それで納まるわけはなかった。すぐに、三郎一人で乗りたいと言い出した。
サブロウは、それは無理だと思った、が。
とんでもない誤解だと気づくのに時間はかからなかった。
ひととおり乗り方を教えたら、三郎はなんの不都合もなく乗れてしまった。
それどころか見様によってはサブロウより上手い。
サブロウが走れないような場所でも、平気で走り回ってしまう。
抜群の運動神経の持ち主のようだ。
御婆の言うには、馬に乗らせたら右に出るものはないのだそうだ。
わらじ履きで疾走する三郎は、とても昨日今日バイクを見たヒトには見えなかった。
「これは面白い、が。馬手(右手)を離すと走らんのは困る。これでは、戦には使えぬ。」
利き手には槍や刀を持つのだろう。もっともな話しだ。
しばらく過ごす内、サブロウはココの生活にすっかり慣れた。
言葉も不自由ないくらいには通じるようになっていた。
それに、三食昼寝付き、温泉まである。アクセクもせず退屈もしない。
カルチャーショックも裏返せばイイ刺激だ。
サブロウは自分がココに居る事を、深く追求したりなどしなくなっていった。
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(第十一話)
音を殺して、板戸が滑る。だが、サブロウは気が付いた。眠りが浅かったのか。
闇夜ではないから光が射す。入ってきた影は女のものだった。
また夜伽か、遠慮ではないから止めてくれと伝えたはずだ。
それきりサブロウが床についた後は、誰も部屋を訪れることはなかったのだが。
「うっ!」
まさか。
サブロウは薄闇の中で影の主が誰かを知り、眼を剥いた。
(お、御婆!)
「サブロウ様・・・・。」
思念だ。御婆に違いない。
「サブロウ様。ふふ、望むのなら私が伽をしてもかまいませぬ。」
「でも、その前に私は、もう少し知りたい・・・。」
「ぅう、なにを。いつでも聞けばいいじゃないか、なにもこんな。」
「話などでは、埒があきません。時がかかり過ぎる。それに、サブロウ様の
語れることは限られています。意識や記憶の表面だけです。」
御婆は、腰を落とすとサブロウの夜具に滑りこんだ。
「あ、待て御婆。そんな、それは、ま、マズイ。」
サブロウはそこで気がついた。
思わず起き上がろうとしたが、身動き出来なかったのだ。
金縛りか、いずれその類だろう。が、苦しい感じはない。むしろ心地よい。
御婆がサブロウの胸元から、肌に触れてくる。
「くっ。」
動ければ、サブロウは身悶えたかも知れない。それほどの痺れが走った。
「お、御婆。これは・・・。」
「大丈夫です。以前、言ったはずです。貴方とは相性がイイと。」
「落ち着いて、楽にしていてください。嫌ではないはずです。」
そうだ。サブロウは全てを見通されているのを思い出した。
「ふふふ、そう。分かっています。無理をしなくてもいいのです。」
「直接、思念で直接貴方とつながるのです。私は知りたい。貴方の全てを。」
御婆は、よりいっそうサブロウに身体を重ねて来る。
痺れが徐々に広がり、サブロウの「意識」は仰け反ったまま言葉を失っていった。
サブロウは何時か、今まで経験したことのない甘美な陶酔の空間に居た。
思念の会話も、もう交わされていない。
生まれてこの方感じたことのない安らぎに、サブロウは包まれていた。
眠りに落ちたのか、夢の続きなのかも分からない。
御婆と身体を重ねている実感も、とうに虚ろになっていた。
翌朝、サブロウは目覚めた。いつもの天井が見える。
夢だったのか。
布団を剥いで起きあがる。
夢にしては鮮やか過ぎる。夢ではない。御婆は確かに居たのだ。
御婆に添われた辺りから、徐々に記憶がなくなっている。眠ったのか。
見たところ、ソレ以上の出来事の形跡は、ない、ようだ。
なにか少し寂しいものをサブロウは感じたが、すぐに赤面した。
サブロウの全てを知りたいと、御婆が言っていたのを思い出したからだ。
全部知られてしまったのだろうか。何もかも・・・。
御婆は、サブロウが語れるのは意識と記憶の表面だけとか言っていた。
どういう意味だろう。サブロウは考え込んだ。
意識と記憶に表面があるなら。中身や裏側もあるんだろうか。
とにかく、いつものことだが、御婆の言うことは言葉は簡単だが意味は不明だ。
サブロウの常識の範疇ではないことばかりだ。
参った。本当に知られてしまったんだろうか。ナニもかも・・・。
サブロウは再び布団を頭から被った。
そこに微かに、サブロウは御婆の残り香を感じ取っていた。
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(第十二話)
サブロウの前に御婆が現れなくなって3日が過ぎた。例の夜以来である。
それとなく三郎に尋ねたが、三郎はとぼけているのか、多くは語らない。
どうやら祠に入ったままのようだが、詳しくは分からない。
とにかくここでは、御婆が居ないと何につけ、サブロウには詳しいことは分からない。
御婆が居ない理由を御婆に聞くのは、今は無理だ。
それはともかく、昨日今日、屋敷の内もなにか少し様子が違ってきていた。
何か慌ただしいのだ。馬屋の周りも、騒々しくなにか落ち着かない。
三郎に尋ねても、苦笑いだけが帰ってくる。
三郎とは、こちらの意志が通じているのかも怪しいときがあるから、確かめようもない。
サブロウのバイクは、沈黙していた。
三郎は相変わらず乗りたがったが、ガソリンが尽きていたのである。
1〜2リットルがタンクの底に残っているだけだ。
それに、あとは例の3リットルの予備タンクだけだ。使いきると身動きが取れなくなる。
ココでは、ガソリンを調達するのは不可能だ。確実にそうだ。
そうでなくても御婆が居ないだけで、サブロウは十分身動き出来ないのだが。
まだサブロウは、それに気がつくほど切実な状況ではなかった。
それから、さらに2日が過ぎた。
サブロウは、馬のいななきを聞いて目覚めた。まだ、夜が白んだ程度の刻だ。
何とも言えない。ザワついた雰囲気を感じた。ナンだろう。
落ち着かないから、サブロウは起きて身支度をした。表が気になったのもある。
と、縁からの慌ただしい足音が部屋の前まで来て止まった。板戸が開く。
三郎だ。兜はつけていないが甲冑を身につけている。見違えそうだった。
サブロウよりは15cmほど背は低いが、甲冑姿の三郎は一回り大きく見えた。
彼の胆力が甲冑では押さえきれず、威圧感となって現れていた。
「サブロウ殿。話せずにいたが、戦が始まる。しばらくは帰らぬ。」
そういうことか。なるほどサブロウは客とは言え。家のものではない。
戦のことは話すわけにはいかなかったのだろう。
「勝つつもりで仕掛けるが、勝負は時の運、どうなるかは分からぬからの。」
三郎は別れを告げに来たのだ。
「妻子の病気の件は助かった。重ねて礼を言う。」
「鋼の馬は面白い、戻ったらまた乗りたいものだ。」
三郎は、いつになく多くを語ったが、サブロウに理解できたのはそのくらいだ。
歯がゆいが、御婆がいないと三郎との会話はいつもこんなものだ。
「これを。」
三郎は短刀を差し出した。礼か記念か、サブロウにくれるということらしい。
立派なこしらえのものだ。家の宝であろうか。
サブロウは思いついて、キャンプ道具の中からひとつのネットを取り出した。
ジッポーのライター、オイル、石のスペアが入ったものだ。役に立つはずだ。
それを三郎に渡す。三郎が受け取らないのを、無理に押しつけて渡す。
サブロウの持ち物の使い方は、それこそ根掘り葉掘りしつこく聞かれたから、
どれも丁寧に説明してあった。
それに三郎はいちいち、それらを自分で使ってみないと納得しなかった。
ライターは三郎なら、十分に使いこなせるはずだ。
サブロウが感心したことには、三郎がどれひとつ、それらを欲しがらなかったことがある。
欲がないと言えばそれまでだが、それだけではないのをサブロウは知っていた。
三郎は、サブロウが旅の途中だということを理解していたのである。
三郎は、これ以上はない笑みを満面に浮かべるとサブロウを抱いた。
甲冑の金具がサブロウの胸に食いこむほどの力だ。サブロウも力を込めた。
数秒後。素早く身を離すと、笑顔のまま背を向け部屋を出た。
戸は開け放ったままだ。大股の足音が遠ざかってい行く。
部屋を出たサブロウは、縁を周り表に出て自分の目を疑った。
いったい何処から現れ集まったのか、門の内には槍を携えた兵が溢れかえっていた。
開け放たれた門の外には騎馬武者が数十騎、いななきはこの騎馬のものだったのか。
三郎の顔から笑みは消えていた。駿馬に跨り門外へと向かう。
サブロウと戯れていたときの三郎の面影は微塵もない。
御婆の言った通りだとすれば、三郎は六百名ほどの兵を率いて出たはずだ。
ひとしきり、ときの声をあげたあと、僅かな人数を残して、粛々と屋形をあとにしていった。
門内は、いつもの静けさを取り戻した。門も、今は閉ざされている。
門に背を向けたサブロウは、縁の上に立つヒトを見とめた。
御婆だ。間違いない。
サブロウは駆け出していた。聞きたいことが山ほどあるのだ。
御婆は、いつもと変わらぬようすでたたずんでいる。
例の微笑だ。
サブロウは少し腹を立てていた。
なんで姿を現さなかったのか。まずそれから聞いてやる。
沢山の疑問を差し置いて、サブロウはそんな単純なことを思っていた。
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(第十三話)
「お話したいことがあります。」
サブロウが駈け寄り口を開く前に、御婆はそれだけ言うと背を向けて歩き出した。
「あ、ま、待てっ。」
御婆は、足が速い。滑るように歩く。歩幅はサブロウのほうが遥かにあるはずなのに。
縁を周りサブロウの部屋に入り、サブロウが座るのを待って腰を落とした。
なぜか正面ではなく、右手に座った。
「考えていたのです。三郎様の戦の件もありました。」
サブロウが口を開く前に、御婆は語り始めた。言葉でだ。思念ではない。
「私が貴方のことを知りたかったのは、私の知らない部分を貴方が知って
いるからです。」
「私がこの世のものでないことはお話しましたね。貴方もそうだと。つまり、
貴方はこの世からみたら先のヒト。ここは貴方の世の過去にあたるのです。
私は貴方よりさらに先の世のモノです。貴方の世も私にとっては過去という
ことです。分かりますね。」
「う、分かる。御婆は俺より未来のヒトということだな。」
「そういうことになります。もう少し私のことをはなしましょう。貴方のことを
十分知った以上、そうしないと対等ではありません。知りたいでしょう?」
「勿論、知りたい。知りたいことだらけだ。まず御婆のことを教えてくれ。」
「ふふふ、いいでしょう。私のことは、それ程難しくはありません。私も迷い
込んだのです。それで三郎様の曽祖父に救われた。貴方が三郎様に
出会ったのと似ています。三郎様もそうですが、この一族には邪気があり
ません。価値観や倫理観は勿論違いますが。私が少し手助けをしたことも
ありますが、それだけでなく、この一族は栄えてきました。」
「三郎様は勿論、3代に渡って一族の総領が幼少のころから、事ある毎に
助けてきました。養育から教育といったことにも、自然と手を貸してきたのです。
私の知識、知恵のほんの一部分で、結果として一族に安定をもたらすことが出来ました。」
「そうかそれは分かった。それで、御婆が歳をとらないのは、どういうことだ。」
「それは、私にも説明は難しいんです。あえて言えば、私の持っている時と
この世の時は、違うものです。この世が100年過ぎても、私の時は僅かしか
過ぎていないということです。理屈では説明できません。結果が、そうなのです。」
「むぅ、すると。勿論俺の時も、この世とは違うかも知れないんだな・・・。」
「そうかも知れません。」
「・・・で、な。それでなぜ、俺より未来の御婆が知らないことを、俺が知ってるんだ。」
「そこです。私も貴方と同じで、記憶や意識の全部を把握できているわけではあり
ません。この世からは、貴方より離れているからです。貴方の方がこの世に近い
のです。私の内では風化しているようなモノが、貴方の内ではまだ形が残っている。
分かりやすく言うとそういうことです。勿論、それはヒントです。そっくりそのまま
残る事はありません。手がかりなのです。推測の材料になるのです。私の居た
世の中では、それを学問として研究する者達が居たのです。そう、私もその
ひとりでした。」
「ふむ、それで?」
「で、貴方の事です。貴方のお陰で、この世の行く末の分からなかった部分が
殆ど分かりました。この一族の運命もほぼ正確に予測がつきました。」
「えぇ、俺はそんなことは何も知らないぞ。この家のことも何も知らない。」
「ふふふ、いいのです。貴方が思い出せないことも、貴方の内にはちゃんと
ありました。それを認識する必要は貴方にはありません。どうでもいいことです。」
「どうでもいい?」
「貴方にとっては、どうでもいいということです。深い意味はありません。」
「私は、この時代の、戦がなくなり平和が訪れることを望んできました。それは
三郎様の一族の為にもなることだと思っていました。でも、まだかなりの間
この乱れた世は続くということが分かったのです。三郎様の一族も、その戦乱の
中で主役の座には残れません。哀しいですが、そうなるようです。」
「・・・・。」
「でも、今のこの世の有様は、必要な事だと分かったのです。なぜなら、そのことは
貴方の世が来るまでの、時の流れの中での重要な部分となるからです。」
「この世は、まだまだ混乱を続けますが、やがて来る平和な世の中の礎と
なるのです。愚かな争いは、過ぎた後でしか教訓となりえないのです。
何時の世も、戦と言う過ちを繰り返し犯しているようですが、そうではありません。
少しずつ、良い方へと向かう力が生まれていき、悟りを生んでいくのです。
三郎様も、その為に生まれ精一杯生きる事で、この世の一部として価値を残すのです。
時の流れの中で、混乱が長く続いても、それは決して無駄に過ぎ去るのではありません。
事実、貴方の世に行きついたとき、この世にも平和が訪れているでしょう。違いますか?
そう、約五世紀後の貴方の世にはです。」
「確かに、内乱になるようなことはなくなっている。」
「そうです。貴方は私にそれを証明してくれました。」
「話しは、私のことに戻ります。私は、この世に迷い込みましたが、そのまま
元の世に戻る事が出来なくなりました。もう、戻る糸口は見つけられそうに
ありません。永遠の旅人になってしまったのです。ところが、貴方には
まだ戻るチャンスがあるのです。そのことが分かったのです。お話ししたかった
のはそのことです。おそらく、元の貴方の世に限りなく近いところへ戻れる
はずです。」
「・・・戻る。元の世に、そうか俺の時代にか。」
「そうです。戻りたいでしょう。それが自然です。」
「サブロウ様。貴方の中にも邪気がない。欲も。貴方は打算で動くような
ことをされない方です。貴方のような心根の方は、今のこの世にはあまりいません。」
「素直に生きられることです。それだけで、貴方にとっての全ては上手く回るのです。」
御婆の表情は、今まで見せたことのない悲しいものだった。
御婆自身が戻れないことが悲しいのか。
「掻い摘んで話しましょう。理解することは必要ありません。」
「う、何をだ。」
「貴方が戻る方法のことです。貴方は迷ったとき、水溜りに嵌まったと言いましたね。
それならば、帰るときにも嵌まればいいのです。簡単なことです。」
「う、それは確かなのか。何故分かる。御婆は戻れないのに、何故俺だけが。」
「・・・私も戻ったことがあるのです。3回目にココに来たときから戻れなかったのです。」
「・・・。」
「それを説明しても意味がありません。貴方は、戻れるはずです。聞いてください。
いいですか。貴方がココへ来たのは裏山の泉の付近、しかも新月の、つまり闇夜の
晩です。ソコに、貴方の言う水溜りが出来るはずです。そこへ入るのです。それだ
けです。元に戻るはずです。私のときも、戻る場所は違いましたが、そうやって戻ったのです。」
新月の晩は2日後、ただし新月の前後というだけで、何時かは正確に掴めない
ということだった。時間はあまりない。
とりあえず、サブロウはその晩から、三郎と出会った付近にキャンプをすることにした。
水溜りを見つけ次第、そこに飛び込むことにした。
何も確証はない。どうなるかなど、まるで分かったものではないのだ。
御婆を信頼しているだけのことだ。サブロウは深く考えるのを止めていた。
最初の晩は、ついに水溜りは現れなかった。
いや、見つけられなかったのかも知れない。
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(第十四話)
サブロウがキャンプをはって、2日目が暮れようとしている。
今夜が新月の晩、御婆の言った闇夜の晩だ。
バイクには、残っていたガソリンを全て入れていた。それでも、4リットルくらいしかない。
荷物は全てバイクに積んである。旅に出るとき用意した物、そっくりそのままだ。
水溜りを見つけ次第、行く。そう決めていた。
昨夜は徹夜だった。昼にテントで寝たから、頭は冴えていた。
泉の手前、倒木に座って、夜が更けるのを待った。辺りは静まりかえっている。
もうしばらくしたら、探さなければならない。水溜りの出来る場所は、分からないからだ。
御婆とは、昨日の夕方分かれた。
御婆は戻れないのに、サブロウには戻れと。そうするべきだと御婆が言ったのだ。
まだ居たい気持ちもあった。だが、御婆に言われると反発できなかった。
そうするべきだと、サブロウも思ったのだ。そういうことだ。
夕闇が、しだいに深まり、やがてサブロウの姿を漆黒の闇に包み込んだ。
林の中だ。風もない。
そろそろか、サブロウは立ちあがり。マグライトを捻り、それをベルトで頭にとめた。
光が、サブロウのバイクに反射して辺りをわずかに照らし出している。
サブロウは泉の方向へとバイクを押した。平らな部分はそのまま進むつもりだ。
サブロウのバイクのチェーンの空回りする音。車輪の踏む落ち葉の音だけが、微かにたつ。
数分で泉のほとりまで出た。来たときとは違う方向へ引き返す。
扇形に往復することになる。この方法がベストなのかどうか確証はない。
バイクを置いて歩き回れば効率が良さそうだが、サブロウはそうしなかった。
手ぶらで迷うのを避けたかったのである。
3度目に泉まで行きついたとき、サブロウは首を傾げた。
「ん?」
泉の形が、変化しているように感じたのだ。こんな形だったろうか。
ライトで泉の周囲を照らす。何かが変ってる。そう感じるのだ。
「おぉ。」
サブロウは気が付いた。泉の端、ひょうたん形のくびれた辺りが妙だ。
そのくびれを境に、水面の波紋が、消えている。
3分の1程の、くびれからの先の部分は鏡のように静か、だ。出た、間違いない。
サブロウがあの日、ハマッた水溜りの様子と同じ。同じものなのか。
きっとそうだ。これだ。近づくと鏡のような水面が、ライトの光を反射して輝いた。
御婆の言葉通りに現れた。これは、やはり運命か。サブロウは思った。
サブロウを待っていたかのように、その水溜りはそこに現れた。
「よぉし!」
サブロウは頭に付けていたマグライトをとり、ヘルメットを被った。
イグニッションを回し、セルボタンを押す。轟音と共にエンジンに火が入った。
好調だ。辺りの静寂を裂いて排気音が響く。
十分に暖機する。いつもどおりだ。バイクに乗り出してからずっとそうなのだ。
シールドを上げて、跨ったまま。エンジンが、スムーズにフケ上がるようになるのを待った。
前方に、水溜りが、鏡のような表面がライトの光の中に浮かび上がっている。
「サブロウ様。」
「え?」
声が、いや、聞こえるわけはない。耳には排気音が充満している。
「サブロウ様!」
今度はハッキリと。思念だ。ということは。
「御婆!?」
サブロウは、反射的にイグニッションを切って、辺りを。
しまった、ライトも消えていた。静寂とともに闇に包まれたサブロウは慌てた。
「ここです。サブロウ様。」
左後ろから、声がした。御婆の声だ。
「う、御婆。」
「あ、出たぞ。あった。ううっ、ちょっと待て。」
サブロウは手探りでイグニッションを捻った。ライトが点く。
ハイビームにすると、サブロウは前方を指し示した。水溜りが映し出されている。
「これだ。これか?御婆の言ったのは。」
「そうです。」
「御婆。わざわざ確かめに来てくれたのか。それとも、見送りか。」
サブロウは、御婆を見て安心したが、同時にそのまま去る決心が揺らいでいた。
さっきまでの気負いが、抜けてしまっていた。サブロウは次の言葉が出なかった。
御婆は、それに気づいているのかどうか。
水溜りをジッと見つめている。何を思っているのか。
唐突に、御婆はサブロウの方を向くと言った。
「私を連れていきなさい。いいえ、私も行きます。連れていってください。」
「ぇえ?なっ・・・。」
「私はいきたい。貴方をひとりで行かせたくありません。ここから、絶対確実に
戻れる確証は、ないのです。貴方には私が、まだ必要です。」
「・・・。」
「嫌ではないのは分かっています。ならば連れていきなさい。」
サブロウの思いは筒抜けだ。
サブロウが御婆と居たかった気持ちも、見透かされていたのは当然だ。
「う、だが、三郎の一族はどうなる。」
「わかりません。でも、私に出来る事はもうありません。三郎様も、もうお一人で
なんでも出来るようにお成りです。あとは運命を切り開いていただくだけです。」
「貴方の気持ちは知っています。最初から分かっていました。私も正直に言いましょう。」
「私は、貴方と生きたい。一緒に生きたいのです。」
「お。」
そこまで言うと、御婆はサブロウに手を差し出した。
目が合ったまま、数秒が過ぎた。御婆の、大きな切れ長の瞳が潤んでいた。
そうまで言わせて、サブロウにはもう言うことはなかった。差し出された手をとった。
サブロウは御婆を引き寄せ、抱き上げた。羽のように軽い。
そのまま、御婆はサブロウの背に手を回した。このまま行くしかない。
荷物があるからタンデムシートは無理だ。疾走るわけではないから、なんとかなるだろう。
サブロウはセルボタンを押した。
暖機の途中で止めたから、少し渋ったが。数秒で轟音と共に火が入った。
スロットルの反応は軽い、野太い排気音が響き渡っている。
「行って!いつまで水溜りがあるか分かりません。」
御婆が叫んだ。今度は思念でだ。
「ぅし!しっかり掴まるんだ。」
クラッチを切り、シフトペダルを踏む。サブロウはゆっくりとバイクを出した。
「入るぞっ!」
水溜りに前輪がかかった。
「うぉ、わっ・・・」
分かってはいたが、落ち込む瞬間。サブロウは叫んでいた。
一瞬で、スパッと切り落とされたように、光と音が、ライトと排気音が掻き消えた。
辺りは静寂と漆黒の闇に戻っていた。水溜りも、闇に包まれてしまっているのか。
これで、サブロウと御婆は、この世を去った。
そういうことになるのか。
「う、う?」
気がついたとき。と言う言葉しか表現のしようがないが、サブロウは我に返った。
そのまま、御婆もそのまましがみついていた。
バイクのエンジンは落ち着いたアイドリングを続けている。
サブロウはニュートラルにギヤを入れ、クラッチを離した。辺りを見まわす。
早朝のようだ。朝日はまだ射してはいないが、もう明るい。
御婆も気がついたらしく。顔を上げ辺りを覗った。
農道、どうやら果樹畑の中のようである。道の片側は葡萄棚が広がっている。
「ここは、甲府側じゃないかな。」
御婆に地名を言っても、意味をなさないかもしれない。
見渡すと、舗装した道路やガードレールも目に入った。
御婆を落とさないようにサブロウは走った。やがてアスファルト舗装の道に出た。
さらに下ると、大きな通りに出た。サブロウには覚えがあった。甲府バイパスだ。
とりあえずサブロウの時代には出たようである。見なれたクルマも走っている。
「このままでは、長くは走れないな」
サブロウが呟いたとき、おあつらえむきにコンビニエンスストアーが有った。
やはり、戻ったのは間違いないようだ。
サブロウは空腹をおぼえていた。その点でもコンビニはタイムリーだ。
御婆は、先程から一言も喋らない。何か考えているようだが、無言のままだ。
いつものように、サブロウは握り飯を買い。ついでにスポーツ新聞を買った。
「ぅうん?」
何気なく、新聞の日付を見たサブロウは不審気な声を上げた。
サブロウが旅に出た日より、2ヶ月程も前の日付だったからである。
「御婆、俺達は2ヶ月前に、戻って来たようだ。」
顔を上げた三郎の前で、御婆は以前のような、例の微笑みを浮かべていた。
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(第十五話)
「そうか、そうだったのか。」
サブロウは、一人で納得した。いや、ツジツマが合ったから、腑に落ちただけだ。
面白い、不思議だが現実なのだ。
サブロウが勤めていた会社の正面玄関の前だ。街路樹の影にサブロウは居た。
今しがた三郎が玄関を出て、会社の裏に停めてあるバイクに向かった。
その三郎を、サングラスをかけ、そ知らぬフリで覗う男が居た。サブロウである。
バイクに乗った三郎が走り去るのを、見送って。サブロウはタクシーを拾った。
御婆は品川のホテルの一室に待たせてある。サブロウは、そのホテルを運転手に告げた。
サブロウと御婆が、戻ったのは山梨県の勝沼町あたり。笹子峠を下った辺りだった。
時間も場所も、かなりずれていた。幸いサブロウの認識できるトコロには戻れたのだ。
あれから甲府に向かいながら、いろいろと大変だった。
御婆を抱いたまま。走るわけにもいかず、荷物を一部、捨てなければならなかった。
とりあえず、大事なものはデイパックに詰めてサブロウが腹に抱いた。
道路工事現場にあったドカヘルを失敬して御婆に被せ、街へ出た。
珍妙である。ドカヘルを被った巫女さんを乗せて、荷物をだいたバトルスーツ姿なのだ。
デパートと2輪用品店をハシゴして、ようやく御婆の身なりを整えた。
ヘルメットはジュニアサイズ。ジャケットはレディースのSがガバガバだ。
それで、その日は甲府近郊の温泉宿に泊まり、次の日に都内に戻ったのだ。
あのころ、三郎が悩み始めたころ。三郎が感じ始めた視線の主はサブロウだったのだ。
三郎が自分の内面を見つめているとき、サブロウがそれを見守っていたことになる。
サブロウは、当面の自分のなすべきことが分かり始めていた。
タクシーを降り、御婆の待つ部屋に向かう。
御婆は部屋で待っていた。巫女の姿ではないが、雰囲気は相変わらずだ。
サブロウと一緒に服装を買い揃えた。サイズも都内なら不都合なく整えることができた。
クレジットカード等はそのまま使えたから、金銭的には困らなかったのだ。
ほとんどをボーナス支払いにしたから請求はずっと先だ。しかも。
それとは別に、サブロウの少ない荷物の中にノートと手帳があった。
株式投資のメモと、競馬の当り番の記録である。
勿論、馬はコレカラ走るのである。株式もコレカラ変動するのだ。
これなら当面の生活には、たぶん困らないだろう。今までの蓄えもある。
「サブロウ様?」
これからどうしようかと、考え込んでいたサブロウに御婆が声をかけた。
「うん、なんだい?おば・・・。」
「あぁ、あのさ、どうも、様は変だから、呼び捨てでイイよぉ。それに、オババはもっと
変だよ。あ、そうだ、御婆の名前を聞いてないじゃないか。」
「名前?ですか・・・。」
「おぉい、急に思念で話すなよ、コンガラガルじゃないか。」
「うふふ、ごめんなさい。私の名は、ちょっと貴方には発音できないと思います。
記号を組み合わせたモノ、そうですね、IDです。そういったものです。」
「ぇえ?また難しいことを言うなよ。」
「ふふふ、いいです。好きに呼んで下さい。そう、つけてください。名前を。」
「はぁ?・・・。」
サブロウはため息をついた。先が思いやられたのだ。
御婆の名前を考えるなど、思いもしなかった。どうしたものか。
何か、えらいモノを連れてきてしまったのかも知れない。
戻っては来たものの、当分混乱し続けることになりそうだ。退屈しそうもない。
とりあえず、しばらくはホテル住まいをするしかない。サブロウの部屋には三郎が居る。
そうだ。三郎が旅立ったら、俺も御婆とどこかへ出かけよう。それがいい。
御婆と過ごす中で、これからの自分の生き方を探していけばいい。そう感じていた。
俺の世は平和だ。あの三郎の世とは比べ物にならない。彼らと御婆の生きた時代とは、だ。
それに、彼らが生きた事の証が今のこの世の中の平和に結びついているのだ。
そうならば、御婆はこの平和を分かち合う資格を十二分に持っているはずだ。
ああそうだ、その前に、三郎に例のガソリンタンクを贈らなければいけない。
そんなことをアレコレ考えているサブロウの前で、御婆はやはり、相変わらず微笑んでいる。
だが待てよ、三郎の向かうあの世に「御婆はもう居ない」のだ。
サブロウは、少し複雑な心持ちになっていた。
とりあえず、おしまい