敗れざる人
今、私の手元に、一冊の分厚い辞書がある。
収録語数、二十三万語。1955(昭和三十)年の初版発行以来、1200万冊が
販売され、今や国語辞典の代名詞ともなっている辞書――広辞苑である。
私のような、愚にもつかない雑文を書いている人間にとってさえ、
この辞書は絶対必要不可欠なアイテムであると言っていい。
私自身も、よく文章を書いている最中に、
「はて、ここの言い回しは、本当にこれで正しかったんだろうか?」
なんて疑問に思うことがある。
そんなときは、すぐにその場で広辞苑を引くように心がけている。
すると、その語の正しい用法はもちろんのこと、意味や由来や、語が成立
した時代背景までもが、平易な解説文によって、たちどころに知ることが
できる。
今までこの辞書には、どれほどお世話になってきたことか。
とても言葉では言い表すことができない。
それにしても、この広辞苑というのは、時に下手な小説なんかよりも、
よっぽど面白い 「書籍」 だと感じてしまう。
たまたま何かの機会で、ある言葉の意味を調べたとき、その言葉の意外な
由来などを知って、「へーっ」 と感心することがある。
そうなると、その解説文の中に書かれている、関連語の意味なんかも
知りたくなってくる。
そうやってページをめくっているうちに、気がついたら一時間近くも
のめり込んでいた、なんてことが、過去に何度もあった。
待ち合わせで時間をつぶすときには、広辞苑が一冊あれば十分だろう
(もっとも、持ち運びには不便だろうけど)。
ところで先日(6月19日)、NHKの 『プロジェクトX』 という番組で、
この広辞苑が採り上げられていた。
これは絶対に見逃すわけにはいかない――というわけで、新品の
120分テープを買ってきて、しっかり録画もしておいた。
広辞苑は、新村出・猛という親子の言語学者の、執念とも言える努力に
よって生み出された、日本で初めての本格的な国語辞典である。
もちろん、それが発行されるまでには、各方面の学者や編集者たちなど、
多数の人々の協力があった。
だがそれらの中心に、新村親子の情熱がなければ、この辞書が編纂される
ことは、決してあり得なかった。
『プロジェクトX』 では、広辞苑の編纂に賭ける、これらの人々の熱い
心情が、赤裸々に綴られていた。
番組を見て印象に残ったのは、新村出の、言葉に対する徹底的な
「こだわり」 である。
例えば新村は、「雲」 というたった一つの単語に対してすら、四冊の
ノートを使い、徹底的に調べ上げた。
今、広辞苑を引いてみると、雲の科学的な定義から、語源や意味や用法
などが、三十五行にわたって解説されている。
これさえ読めば、雲という単語の日本語における定義は、確実に把握する
ことができる。
このような調査を、二十万という単語のすべてに対して行うのが、いかに
膨大な作業――それは既に 「作業」 の範疇を超え、「事業」 のレベルに
達していると言ってもいい――であることか。
一つ一つの項目に対して、これほどの労力が注ぎ込まれているのであれば、
読んでいて面白いのは当然である。
私はかつて、とある出版社に在籍していた。
編集者という職業に就いていれば、同業他社の情報というのは、けっこう
入手できるものだ。
例えば小学館は、『大辞泉』 という、広辞苑にも比肩する辞書を発行して
いるが、この編纂もまた、一つの大プロジェクトだった。
私の聞いた話によると、今から四十年以上も前に、小学館の一人の
新入社員が、大辞泉の編集担当者として配属された。
以来、その人は三十数年間、大辞泉の編集一筋に生きた。
彼が定年退職する直前に、ようやくこの辞書は完成した。
国語辞典の発行というのは、一人の会社員が、会社人生を捧げてしまう
ほどの大事業なのである。
今一つ印象に残ったのは、新村を始めとするスタッフの人々が、最後まで
決して諦めなかったことだ。
広辞苑発行までの道のりは、決して平坦なものではなかった。
次男・猛が、特高警察に逮捕されたこと。
ようやく原稿が完成し、まさにこれから印刷にかかろうというとき、
空襲で原稿が焼失してしまったこと。
数々の困難に遭遇しながらも、彼らは決して夢を放棄することはなかった。
「最後まで諦めない」――言葉にすると、本当にありきたりな表現に
なってしまう。
でも、ありきたりであるからこそ、ありふれているからこそ、
今の時代では、逆にその言葉は輝きを放つ。
大切なのは、「負けない」 ことではなく、「最後まで諦めない」 こと
ではないだろうか。
「四百戦無敗」 という格闘家がいる。
「二十年間無敗」 という触れ込みの麻雀のプロがいる。
正直申し上げて、私はそんなキャッチフレーズは信用することができない。
少なくとも、そんなことを標榜する人は、尊敬はできない。
なぜなら、本当に強い人というのは、「勝ち続ける人」 ではなく、
「負けても、負けても、這い上がってくる人」 ではないかと思うからだ。