夜叉神峠

南アルプスの懐深く入って行くと、それは待ち構えてい
る。「えっ、こんなとこ、ふつうのクルマとか通ってい
いの?!」
記録係・中川マユミはそう絶叫した。


 夏場になると、いつもここに来てみたくなる。
 かなり標高の高いところを走っているので、11月の
半ばあたりから5月末、下手したら6月半ば過ぎまでも
冬季閉鎖されてしまっているのに加え、ここは何度来て
も飽きない、ワクワクするような場所の連続だからだ。
 芦安村を一気に駆け登って行くと、途中から道は南ア
ルプスFRとなる。
 大絶壁の続く、山腹沿いの道である。
(下はどうなってるのだ?)とガードレールに片足を掛
けて覗き込むと、貧血気味になるようなすさまじい大谷
が眼下に広がる。
 その絶壁の至るところにトンネルがある。
 照明などない。
 どれも真っ暗である。中に入ると出入り口が破れた穴
のように見えるだけで、手元すら見えない。
 おまけに、クルマだとまともにスレ違いができないほ
どに狭い。そのため所々に退避のための凹みが設けられ
ている。
 さらにもうひとつおまけに、万年漏水で天井から壁か
ら路面まで、全部ベチョベチョに濡れている。
 そのためにヘッドライトの暗いバイクで明るいところ
から急に入ると、一瞬、何がなんだかわけが分からなく
なってしまう。濡れている路面と側面が鏡面効果を起こ
してしまい、天地左右の区別がつきにくくなってしまう
のだ。

 その中でも特に夜叉神トンネルはヘビー中のヘビーで
ある。出口側の光りが見えないほどに長い。
 まるでブラックホールのようなトンネルである。
 オレの旧・旧型DTのライトはただでさえ暗いのに加
え、全周濡れまくれに明るさの大半が吸い取られてしま
うので、『いま自分が直立して真っすぐに走っているの
かどうか』という基準が分かりにくく、滅法ゆっくり走
らないと、自分でも気が付かないうちにどちらかの壁に
吸い寄せられてしまっていたりする。 
 ちょうど、なにも基準が無い雪原を吹雪の日にバイク
で走ると、天地も左右もよく分からなくなって、「気が
付くと転んでいた」というホワイトアウトのケースに似
ている。

 初めての奴をここに連れて来ると、みな出口で喚く。
「なんだこれよう、おい! なんっだ、このトンネルは
よう!」
「いいのかよう、ふつうの奴こんなトンネル、バンバン
通しちゃって!」

 同行した記録係・中川マユミも喚く喚く。

「なにここぉ! こんな恐いトンネルを通ったの、あた
し初めてだよう! ディズニーランドの作り物みたいじ
ゃん、ここぉ!」
 そのさまを見て、オレはひひひと喜ぶ。
 押し入れの中のようなところをクルマが走って来るも
のだから、危険過ぎて写真が撮れなかったのが残ちょっ
とばかり念だが。なにしろ今はシーズン中、かなりのク
ルマが通るのだ。

 広河原まで出た。
 ポツンと一件だけあるレストハウスはキャンパーたち
で大賑わいを見せていた。
 道沿いに、屋台の焼きそば屋が出ていた。
 オレは「あっ」と言って、その少し先で止まった。
「どうしたの?」
「オレ前な、実は昔あの屋台で、焼きそばを2つ買って
よう・・・・・・」
「げっ、なんか恐いものでも入ってたの!?」
 止まった→食べるのかもしれない→自分も食べさせら
れるのかもしれない→ここは山奥だ→恐ろしい形相をし
た虫が入っていた、という話を始めるのかもしれない→
どどどどうしよう! と連想したらしいマユミは、みな
まで言わせないうちにそう言った。
「いや。セコイ考え起こしてだな、この焼きそば代も経
費で落とそうとして、あのおやじに『領収書くれ』って
言ったんだよ」
「屋台の焼きそば、2つでってか!」
「うん。したら、皿に盛り付けていた手をピッと止めて
『ンなものねぇよ!』て腹立てられて、鉄板の上に戻さ
れちゃったんだ。でもすげえ腹減ってたから、あっ、い
や冗談だよ冗談! なんちゃって、また盛り直してもら
って・・・・げはははは!」

 アルプス山嶺の懐深く、反対側の長谷村まで伸びてい
る南アルプスFRは、ここから先は監視小屋付きの完璧
なゲートで厳重に閉ざされてしまっているが、いま来た
部分を折り返すようにして、清流の対岸を野呂川FRが
走っている。
 ここからは堅く締まった砂利道のようなダートが続い
ている。
 相変わらず、トンネルは多い。
 多いのに加え、こっちには素掘りのものがたくさんあ
る。掘ったそのままの部分にコンクリートを吹き付けて
あるだけなので、壁面はボッコボコになっている。中に
はそのコンクリートすら吹き付けられておらず、岩壁が
モロに露出しているトンネルも少なくない。
 しかも、だ。その中の幾つかは、中でグニョリと折れ
曲がっている。
 濡れて黒光りするそのボッコボッコの壁面は、まるで
腸の内壁のようだ。
 それも人間のではなくて、悪魔の。
 無論、悪魔が胃腸病になるのかは別の話としてだが。
(わたしはアクマでニンゲンだ! とは、これいかに!
ははははははは!)
 ゆっくり走りながら、シールドを上げてトンネルの中
で喚いた。が、マユミのほうはそれどころではない。
 ようやく肛門から脱出してから、喚いた。
「恐いよぉ〜! やっぱここ絶対ディズニーランドのア
トラクション物のノリだよぉー!」
 ダートが終わり、舗装路になった頃に、前からブラッ
クバードが来た。
 ヒラヒラスイスイと、ならやらけっこう楽しそうな走
り方をしていた。しかし、いかに舗装されているとは言
え、基本的にここがFRなのであることに変わりない。
「うわっすげえ、あいつ根性あるな。でも、この先どう
なってるのか知ってるのかなあ!」

 しばらく走った先で一服していると、そのブラックバ
ードが音もなく目の前を通り過ぎて行った。
 さっきの勢いは消えていた。
「げはは! 最初のトンネル見て仰天したのかな、あい
つ!」
 するに決まっている。なにしろ漏水のひどいところは
ホイールの3分の1ほどもの水深があるのだからして!
 やがて道は鉄橋に差しかかった。
 橋の下の河原が、広くてちょっと気持ち良さそうだっ
たので、ひとつ下に降りてみるかとなった。
 渡り切ったところ河原へと続く荒れ道があった。
 ところがだ。ずるい話で、橋の上から見たらコブシ大
くらいの石ばかりだったのに、実際降りたら、急に石が
膨らんでみんな漬物石になってしまっていた。
「やだよう、あたしこんなところ走れないよう!」
「ほなら、おまえあそこから写真撮れ。腕前みせてやる
」 橋の上へと戻るマユミを尻目に、オレは漬物石の中
でハンドルをコネくりまわし、川まで辿り着くと、勢い
を見せるためにその中をバシャバシャ走り始めた。
 とたんに大後悔した。
 コケの生えまくっている漬物石は、短足の天敵なので
ある。

 大航海だぁ! 喜望峰を回れ!

 恐怖を打ち消すために自然と喚いていた。だが、そん
ものでどうにかなったら、世の中には技術というものは
必要なくなる。
 それみろ、やっぱりコケでコケた。
 慌ててマユミの方を見ると、たまたまよそ見をしてい
た。気が付かれないうちにサッと起こしてブイッと進ん
だら、またコケた。
 ウインカーが割れた。
 が、そこは外観ズタボロバイクの強み、そんなこたぁ
まるで気にならない。
 なにほどのものか!
 と、そのまま大きな石にのけ反って、川の流れに頭を
浸けた。
 背もノビる(身長ではない)し頭も冷えるしと、気持
ちが良いことおびただしい。
「きれいな水ねえ!」
 手堅くテクテクとやってきたマユミが言った。
「でもよ・・・・そうは見えるけど、上の方に施設とか
あったし、人もたくさん居ただろう? ちゅうことは、
上流で流されたションベンだとか、ババアのカァー、ペ
ッ!だとかって、流れてるんだよな・・・・」
「・・・・・・・・」
 清流に手を浸そうとして固まったのが楽しくて、オレ
はトドメを刺すつもりで言った。
「薄まって、分からないだけで。ははははは!」
「そうだよ。毛穴とかから、もう染み込んでるよ」
 逆襲された。そして、こう加えた。
「・・・・・・脳みそに」
「・・・・・・」
 今度はオレが沈黙した。
 自分で振った話なのに、毛穴から、脳みそに、もう染
み込んでる・・・という妙に具体性のある返しをされた
オレは、そのまま黙って起き上がった。

 橋まで戻り、200〜300mも走ったところ小さな
お店があった。その隣にあったきれいなトイレに入って
から、オレは手洗いでうがいをした。
 手に水を掬ってウガアッと上を向いたら、そこはやっ
ぱり山の中、頭上すぐのところに張り巡らされたクモの
巣に、プラネタリウムのように虫が絡まっていた。
 出てからマユミに聞いた。
「おめ、うがいした?」
「した」
「上、見た?」
「見た!」目を剥いて言った。
「びび、びっくりして少し飲んじゃったんだけど、あの
お水って、飲んでも大丈夫なやつなのかなあ・・・・」
「平気だよ。もし上水道じゃなかったら『飲めません』
て絶対ちゃんと書いてあるからさ」
「絶対?」
「たぶん」
「・・・・」
 うわ便所の水飲んだ便所の水飲んだ!
 オレはババアのカーッペッが染みた!
 と喚きながら、オレはまたバイクに飛び乗った。

 少し戻るような形で右に折れ、丸山FRへと入った。
ここからはガラッと道の相が変わる。うねる、くねる、
森を抜ける峠を越すと、いかにもの、FRセットとなっ
ている。
 しばらく走ると四駆に追いついた。
 抜くスペースもないので後ろに付いて走っていると、
するとそのうち、前から道幅いっぱいのダンプがガーッ
とやって来た。
 四駆の運転手は困って首を振り子してたが、オレたち
が脇にどいてスペースを作ってやると、空手チョップの
ように手をかざしながら、いそいそと下がって行った。
「ねえ・・・・あの、人どこまで下がるんだろ。ずーっ
と無かったよ、広いとこなんか」
「知らねぇよ」
「コーナーいっぱいあったし」
「知らねぇよ知らねぇよ! いーひひひひ!」
 バイクは身軽である。
 いざとなれば薮ににでも潜り込める。
 走行ラインなど、極端な話僅か10cmの幅さえあれば
なんとかなる。

 ダンプをやり過ごしたオレたちは、ヒラリヒラリと真
夏の蝶を決め込んだ。

 崖だ、ギャップだ、落石だ。
 谷だ、小川だ、陽光だ。
 涼風と熱風がミックスして流れる8月の南アルプスを
砂塵とともに疾走した。 

 森の木陰で一服した。
「あらっ? そういえばさあグラサン、どうしたの?」
「・・・・・・落としたんだおー」
 さっき川の中で2回目にすっ転んだときに、開き直っ
てそこでエビ反った。そのときにポチョンと落としたら
7800円も出して買ったオレのレイバンはサッと流れ
て、たちまち消え失せた。
 癪なので、黙っていたのである。

「もったいねぇー!」
 と喚いたら、アルプスのやつが、
「もったいねぇー!」
 と、喚き返して来やがった。

              了